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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      忠直の儒者たち
 田中好安は、好庵とも記す。初代藩主忠勝が召し抱えた京都の儒者である。属した学派は不明であるが、好安の弟の一学(好順)が忠勝の命で幕府の儒官林羅山に学んでいることからすれば、朱子学派の流れと思われる。忠勝隠居後もそのもとにあり、その死後忠直に仕えた(「酒井忠勝書下」)。「御自分日記」寛文四年十一月七日の条に、「田中好庵御加増五拾石被下、都合弐百石、是ハ空印様(酒井忠勝)江数年御奉公申上、其上学問相勤候付、向後学者一篇ニ被仰付候故、右之通被下之」とあるように、好安はこの時加増五〇石を受け知行二〇〇石となり「学者一篇」を命じられた。そして次にあげる中沢定右衛門の死去後、年頭の講書を担当するようになった(「御自分日記」)。好安の弟、田中一学も忠勝・忠直に仕えるが、寛文四年に老母への孝行のために致仕し京都に帰った。なお一学は同六年に加賀前田氏から召し抱えの話があるが、旧主の許しが出ず実現しなかった(同前)。しかしその後、江戸に出て水戸藩の儒者となった。
 中沢定右衛門は、これまで知られていない小浜藩の儒者である。「御自分日記」万治二年(一六五九)一月三日条に「於御居間、中沢定右衛門書経講釈云々」とみえ、忠直に「書経」の講釈をしている。この記事が定右衛門の初見であるが、同元年の分限帳にその名がみえないことから、同年の末に召し抱えられたものと推定される。その後も忠直に「書経」「孝経」「商書」をしばしば講じた。また「御自分日記」同二年七月十四日条に、「塩川藤右衛門・浅見治太夫四書一部宛被下、前波与左衛門・福井又左衛門・近藤甚右衛門ハ、於若州被下之、則中沢定右衛門師匠被仰付候間、学問可仕旨被仰付云々」とあるように、「師匠」を命じられた定右衛門が、忠直から「四書」を一部ずつ与えられた塩川以下五人の家臣を教授することになったことが知られる。この定右衛門による家臣教授は、学ぶ者が限定されるなどなお限界をもつものの、藩校の魁といってよく、全国的にも早期の藩士教育として注目すべきものである。定右衛門は、初め扶持米を給されていたが、寛文四年十二月四日に新知三〇〇石という破格の待遇を受け正式の家臣となった(「御自分日記」)。
 千賀源右衛門は、諱を璋、字を男載、号を玉斎と称した。幕府の儒者林春斎の弟子で、『本朝通鑑』の編纂に指導的立場でかかわっていた。寛文六年、忠直が春斎に儒者を求めたのを機に、春斎の推薦を受けて忠直に召し抱えられたが、その後も『本朝通鑑』の編纂に携わり、事がなった寛文十年に一五〇石の知行を与えられた(「御自分日記」)。玉斎は、忠直から「若狭風土記」の編纂を命じられたが、事半ばにして天和二年(一六八二)に死去した(「賀璋小石碑誌」)。なお玉斎には若狭への旅行記である「向若録」がある。
写真182 千賀玉斎墓碑

写真182 千賀玉斎墓碑



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