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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      分限帳にみえる小浜藩の儒者
 小浜藩には、寛永十四年以降かなり多くの分限帳が残されている。これらの分限帳に「儒者」の類別あるいは肩書のみられるのは、寛文十三年(一六七三)の分限帳が最初であり、そこには儒者として田中好安(二〇〇石)・千賀源右衛門(一五〇石)・橋本才兵衛(一〇〇石)・岸田春植(一〇〇石)の四人があげられている。次いで貞享二年(一六八五)の分限帳には田中好庵(二〇〇石)・千賀湯庵(一五人扶持)・松田三迪(三〇俵四人扶持)、元禄三年の分限帳には松田三迪(三〇俵金一〇両四人扶持)、正徳二年(一七一二)の分限帳には松田善三郎(一五〇石)、天明四年(一七八四)の分限帳には山口信八郎(二五人扶持)・稲葉良助(一五人扶持)の名がみえる。
 こうしてみてゆくと小浜藩の儒者の数は忠直の時代に最も多く、その後徐々に減じ、またその待遇も家臣の知行高が時代が下がるにつれて抑えられたことを勘案するとしても低くなっている。いいかえれば藩校ができる近世後期以前で小浜藩の儒学が最も盛んであったのは、忠直の時代であったということになる。
 忠直時代の寛文十三年の分限帳にみえる儒者四人のほかに、この時期には忠直の侍講であった者がいた。忠直の日記である「御自分日記」からは、中沢定右衛門・井組六左衛門・松原益庵・黒宮清左衛門・塩川藤右衛門・田中一学(一角)・橋本一庵・飯田権右衛門・秦才蔵の名を拾うことができる。このうち中沢定右衛門と田中一学とは儒者である。これ以外の者たちは儒書を講釈するのではなく、多くは軍記・文学・歴史・仏書・神道書など多様な書物を講じている。例えば井組六左衛門と本来医師であった松原益庵は「太平記」「北条五代記」「信長記」などの軍記物を、飯田権右衛門は儒書のほかに「甲陽軍鑑」などの兵法書、「沢庵法語」などの仏書を講じている。
写真181 寛文13年「分限帳」

写真181 寛文13年「分限帳」



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