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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      越前の俳人
 松尾芭蕉の門人各務支考は、全国各地を行脚して俳諧を普及させ、その出身地にちなんで美濃派と呼ばれた俳風を定着させた。越前でも支考が元禄十四年(一七〇一)以降七回にわたって足跡をしるし、その勢力拡大に努力したことから、敦賀・府中・福井・金津・三国などの各所に、美濃派の俳壇が形成され明治に至った。
 当時各所の美濃派の俳壇では、支考から授けられた文台を代々の宗匠が譲り受けて、俳統を継承したあかしとした。福井城下において、そうした文台を継承した初代は天井馬童である。馬童は福井の商人で、本瑞寺住職の六枳、藩の重臣松平玄外字(主馬)とともに、支考門人中で「福井の三傑」と評判された。府中の初代は上阪嵐枝といい、領主本多氏の家臣で通称を平左衛門と名のった。また、金津では願泉寺の住職東也が、三国では岸名昨嚢(材木商新保屋惣助)が、それぞれの地の支考門人として、美濃派の俳壇を樹立している。
 このほか、支考の編集した「本朝文鑑」に紹介された丹生郡天下村の石川伯兎、敦賀に住んで医を業とし、支考をはじめとする俳人たちの行脚を世話した伊吹東恕、芭蕉の木像を開眼供養した福井の商家時雨庵祐阿など、支考門下からは多彩な俳人が輩出している。さらに、『続近世畸人伝』に収載された三国の豊田屋哥川(一八一二没)、同じく丸岡の一紹(蓑笠庵)梨一(一八七三没)なども、越前の俳人として忘れてならない存在である。これらの俳人は、いずれも俳諧一辺倒ではない広い教養をもち、それぞれの地域を代表する文化人として活動した。



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