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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      国学の興隆
 こうして、京・江戸の国学者に学んだ人の多くは、歌道に精進し歌人として活躍したのであるが、それと並行して、我国の古典の研究に力を注ぎ、国学本来の分野で成果を修めた人物も少なくない。文政五年(一八二二)に没した府中の薬商伊藤多羅(近江屋東四郎)は、薬物として有用な草木鳥獣鉱物などを研究する本草学が、中国伝来の学問であることを歎き、『万葉集』をはじめとする我国の古典に立脚した独自の物産の学を樹立しようとして「万葉動植考」を著わした。多羅はその草稿を伊勢松阪の国学者本居宣長に見せ、感心した宣長はそのことを『玉勝間』の中に記録している。幕末、福井城下の薬種商鷲田寛隆(一八七三没)も、京都の国学者福田美楯に学び、歌人として知られたが、古文の仮名遣いを研究した「つけひも」と題する著書がある。
写真179 可牟奈我良(伊藤多羅)

写真179 可牟奈我良(伊藤多羅)

 幕末期になると、著名な国学者が次々と越前へ来遊し、国学とその精神を広め、越前の学徒に大きな影響を与えた。本居春庭の門人で国文法の研究家であった八木静修(橘尚平)、京都の歌学者木間保之、伊勢の足代弘訓、本居宣長の門人として著名な飛騨高山の田中大秀などが、その人々である。天保七年(一八三六)十月福井を訪れた八木静修は、儒学全盛の世情を強く批判し、国学こそ日本人が第一に学ぶべき学問であると主張した。静修の講義に感激して、国学研鑽を志した福井藩士中根雪江は、同九年越前人として最初の平田篤胤門人となっている。そうした雪江の奨励もあって、その後福井藩士や鯖江藩士などのなかに、篤胤の門人となった者が、没後の門人を含め四〇余名を数え、雪江のほか、鯖江藩藩校進徳館の教授を勤めた喜多山永隆、橘曙覧の子井手今滋、近代の国文学者芳賀矢一の父芳賀真咲などが含まれている(「気吹舎門人帳」)。
 隣国飛騨の国学者田中大秀も、数度にわたり越前を訪れ大野・勝山・福井・敦賀などの地で、天保から弘化期(一八四四〜四八)を中心に多くの入門者を養成した。平田篤胤門下とは違い、越前における大秀の門人は、町医・商家・農民など庶民が多く、なかでも福井の歌人橘曙覧(一八六八没)が最も有名である。「志濃夫廼舎歌集」で知られる曙覧は、正岡子規の論文「曙覧の歌」(『子規論文集』第六巻)の中で「歌人として実朝以後ただ一人なり」と絶賛されている。



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