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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      歌人の活動
 次に、儒学者以外の文人・学者を、時代の順に概観してみる。歌道では、福井城下の豪商慶松家の江戸時代前期の当主友梅が、最も早くその名を知られている。友梅は名を広賢といい、四〇歳の時、家業を子広富に譲り、北は松島から西は長崎まで、全国各地を探勝して歌を詠じ、「辛崎詣の記」「大仏寺詣記」など、多くの紀行を執筆した。晩年は京都に住んで公卿や名僧と風雅の交わりを重ね、享保十六年(一七三一)八〇歳で没している。
 江戸中期になると、京都の冷泉家・烏丸家・二条家など、古今・万葉調の古体の歌人ではない、いわゆる近体の歌道宗家に入門し、自詠の添削指導を受けながら、歌人として名をなした人々が登場する。冷泉門では、福井藩士の菅沼吉次(一七九五没)・多賀谷雅広・小川英長、福井藩医山室松軒(一八〇三没)、また金津の醤油商坂野致知(一七九九没)などが知られ、それぞれ秀歌を今日に伝えている。嘉永二年(一八四九)に九〇余歳で没した福井千福寺の住持祐可も、二条家や芝山家に師事した歌人として著名であった。祐可は獅嶺と号し俳人としても評価が高い(『金津町史』)。
 中期から後期にかけて、国学者の歌風が越前にも流入して、万葉・古今調の古体歌を詠ずる歌人が次第に広がりをみせた。享和三年(一八〇三)八六歳で没した丸岡藩医青木峯行は、賀茂真淵の教えを受けた歌人であったし、いずれも詠歌をもって名を知られた福井藩士秋田勝徴・笹川道張(一七八三没)・小笠原満尭は、江戸で真淵の門人村上影面(一八〇七没)に師事した人々である。なかでも小笠原満尭は、藩の茶道師範小島知策や福井神明社の神官牧田尚常など、多くの門人を養成して、歌道の振興に尽力している(『丸岡町史』)。
 三国の富商内田庸(一八三五没)は、学問にも志厚く著名な学者を招いて援助するなどしたが、歌道では京都の国学者富士谷御杖を師として、多くの歌集や歌文集を著わした。同じ頃、学徳を兼備して知られた証誠寺二十世法主の東溟(一八五五没)は、京都の国学者賀茂季鷹に教えを受け、歌人としても名が高い。また、丸岡藩士の浅海澳満(一八七二没)は江戸の国学者加藤千蔭に学び、同じく池内蓴(一八八一没)も江戸で国学者本間游清に師事して、ともに丸岡の幕末期を代表する歌人として知られる。



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