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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      越前儒学者の水準
 近世期の越前において、文人・学者として取り上げるべきは、当時の学問や教育の体系、人々の学問的関心や教養などの点からいって、まず儒学者たちであるといわねばならない。しかし、越前の儒学者については、本節の一項で、その主要な人物を概説した。そこに略述した人々は、それぞれ近世の各時期、越前の各地域を代表する儒学者(漢学者)であり、同時に詩や文章といった漢文芸の分野でも、優れた才能を発揮し、地元では文人としても高い知名度を誇っていた。
 幕末の福井十六代藩主松平慶永(春嶽)は、その著「真雪草紙」の中で、福井藩儒官高野真斎について、興味深い記事を書き残している。真斎は江戸昌平学派  の朱子学者で、安政二年(一八五五)創設の藩校明道館で教授を勤め、慶永が「詩・文章・歌ともに出来て、頗る名あり」(「真雪草紙」)と記しているように、文人としても評判が高かった。ある時、慶永が江戸で講義を受けていた幕府儒官成嶋筑山に、真斎の詩歌を示して批評を乞うと、筑山は「いかにも達者にて面白くあれど、田舎流の詩歌なり」(同前)と答えたという。越前の儒学者の文才が、中央でどう評価されていたか、その一端をうかがうことができる。



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