目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    一 儒学
      鯖江・勝山両藩と府中地域の儒学
 享保五年創置された間部氏の鯖江藩では、天明八年(一七八八)五代詮外字の時、京都の芥川思堂を儒官として任用し、以後思堂の子孫や門人が図30のとおり学統を継承して明治に至った。思堂は折衷学派の儒学者であったが、その子玉潭や孫帰山は、江戸昌平学派の朱子学を重んじた。文化十一年六代詮允の時、藩校進徳館が設立され、玉潭・帰山父子は相次いで学頭に任ぜられ、藩の教学を推進した。大郷信斎は鯖江藩士で、幼年より思堂に学んだ後、江戸に出て林述斎の教えを受け、江戸昌平学派の朱子学者として大成した。その子浩斎・養孫学橋と三代にわたって、江戸藩邸内の学問所惜陰堂の教授を勤めた(『鯖江郷土史』『鯖江市史』通史編上巻)。 図30 鯖江藩儒

図30 鯖江藩儒

 このほか、勝山藩では幕末の天保十二年、ようやく藩校成器堂が設けられた。学頭に任じられて教学を監督した藩医秦魯斎や、教育の振興に尽力した当時の家老林毛川は、いずれも折衷学派の儒学者であった(『勝山藩古事記』)。府中においては、元禄十四年領主本多氏が伊藤仁斎門下の田中希尹を招いて士民の教育に当たらせ、江戸時代中期には福井藩儒前田雲洞門下の大柳外字園、同じく清田外字叟門下の竹内無因斎などが、領内の文教振興に尽力した。その後は学問所立教館を中心に、大柳春華・竹内霞堂・沖薊斎・谷口蕉陰・森余山などの儒学者に継承され、明治に至っている。この人々の学統を考えると、府中地域の儒学は、まず古学派が導入された後、福井藩の学問動向に準じて崎門学や京学系の朱子学へ移行し、さらに江戸昌平学派の学風が取り入れられたといえよう。
写真178 大柳ゆ園墓

写真178 大柳外字園墓

 このように、近世期の越前・若狭地方の儒学は、中期以降一貫して崎門の学統が勢力を保った小浜藩の例を除けば、おおむね次のように整理できる。各藩とも前期から中期にかけて、まず京都の学界との接触から、京学系の朱子学や伊藤仁斎派の古学が導入された。中期になると、一世を風靡した荻生徂徠の古文辞学の盛行がみられ、その後は江戸の学界との接触を中心に、新進の教学を取り入れる動きが活発となる。その結果、後期から幕末期には各折衷学派の学風が導入され、さらには江戸昌平学派  の教説が大きな力をもつに至ったといえよう。



目次へ  前ページへ  次ページへ