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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    一 儒学
      大野・丸岡両藩の儒学
 大野藩は、幕末期に蘭学の導入に進取の気風を発揮して著名であるが、儒学の方面では重臣稲垣長章・長和父子を中心に、宝暦年中(一七五一〜六四)から、荻生徂徠を学祖とする古文辞学が導入され盛んとなった。長章(号白巌)は、徂徠門下の太宰春台に学び、安永三年八〇歳まで藩政に参画しながら、徂徠学の振興に努力している。しかし、寛政期(一七八九〜一八〇一)に至り、江戸で折衷学派の山本北山に就学した雨森牛南が、徂徠学を論難して藩士を教導したため、その後の藩の学風は朱子学に重きを置いた折衷学に改まった。幕末期に至って、藩政の改革や洋学の振興などに優れた業績をあげた内山良休・隆佐兄弟も、儒学は折衷学を修め藩士を指導している。
 次に、元禄八年(一六九五)以降有馬氏が統治した丸岡藩では、寛政期まで朱子学が行われ、藩医でもあった青木松柏・松秀父子や、俳諧でも知られる一紹梨一(俳号簑笠庵)などが、儒者としても活動している。寛政十年五代誉純の時、江戸藩邸の儒官であった関赤城を丸岡に招き、科目を立てた体系的儒学教育を開始したため、藩の学事は一新された。赤城は兵学でも知られ、柳川・福岡・久留米の各藩に仕えたが、儒学者としては荻生徂徠以来の古文辞学を唱導していた。続いて誉純は、文化元年(一八〇四)城内三の丸に藩校平章館を設置し、江戸の儒学者宮本嶺南を招いて教授とした。嶺南もまた古文辞学者であったから、丸岡ではますます朱子学が衰退し、古学派が台頭することとなった。さらに、江戸の折衷派儒学者朝川善庵に就学した藩士有馬純信が、嘉永元年(一八四八)帰郷して平章館督学に任ぜられ、また私塾も開いて活動した。純信は盛んに藩の古文辞学派を批判し、折衷学派の儒学を主唱したから、幕末期の丸岡藩では折衷学派も勢力を拡大している(『丸岡町史』)。



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