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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    一 儒学
      小浜藩の儒学
 次に小浜藩では、福井藩とは異なり藩創設の当初から、儒学者の招聘と教学の振興が推進された。寛永十五年(一六三八)大老に就任した初代藩主酒井忠勝は、自藩の文教の充実にも熱心で、京都の儒学者田中好庵を任用し、一五〇石を給し、弟の孝順を林羅山のもとで就学させた。また、二代忠直は羅山の子春斎の門人千賀源右衛門玉斎を儒官とし、三代忠隆は小浜町人の出である松浦庄蔵を召し抱え、江戸に召し連れ林家で学ばせている。このように、小浜藩の儒学は、林家朱子学の影響を強く受けている。
 江戸時代中期になって七代忠用の時、家中教授役を勤めた中村遵(彦六)は、伊藤仁斎に始まる古義学者であり、一時古学派が導入されたことも知られる。しかし、同じ頃藩士中から山口春水が登場して以降、藩の教学は次第に崎門学優位に傾いた。春水は京都に遊学して、山崎闇斎の孫弟子に当たる若林強斎の望楠軒塾に入門し、その学風に心服して研鑽を深め、藩内における崎門学の興隆に努力するとともに、強斎第一の高弟で望楠軒塾の教授であった西依成斎の小浜招請を実現した。また、寛保三年(一七四三)には、成斎とならび称せられた望楠軒塾教授小野鶴山を藩主忠用に推挙して家中教授役としている。
 明和七年(一七七〇)、鶴山の推薦により家中教授役は鶴山から西依墨山(成斎の養子)に引き継がれたが、鶴山や墨山の学徳に心酔した九代忠貫は、安永三年(一七七四)藩校順造館を開設して墨山を教授に任命し、前記古学派の中村遵を免職したから、これ以後小浜藩の儒学は、崎門派の朱子学に統一されることとなった。図29は、こうした小浜藩における崎門学の継承を示したものである。幕末期、小浜藩から出て尊攘派の志士として活動し、安政の大獄に倒れた梅田雲浜も、この学統に連なる崎門学者で、京都望楠軒の講主を勤めている(『小浜市史』通史編上巻)。
図29 小浜藩儒

図29 小浜藩儒



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