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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    一 儒学
      福井藩の儒学
 福井藩では、初代藩主結城秀康以来、武事を重んずる気風が強く、当初学問・教育は重視されなかった。そのため、知名度の高い儒学者を招聘して、藩内教学の振興を図るようなことも、他藩に比較してずいぶん立ち遅れ、寛文年中(一六六一〜七三)になって、四代松平光通が京都で高名な伊藤坦庵を招いたのを最初とする。坦庵は名を宗恕といい、藤原惺窩の門人那波活所などに学んで京学系の朱子学を修め、伊藤仁斎との深い親交でも知られる一級の儒学者であった。坦庵は福井藩の禄を受けて藩の儒官となったが、福井にはいまだ藩校の施設がなく、本拠を京都に置いたまま、ときおり来藩して藩士の教育に当たり、宝永五年(一七〇八)八六歳で没した。こうして福井藩には、京学系の朱子学がまず導入され、坦庵の薫陶を受けた野路汝謙が、七代吉品の儒官に登用されるほどになっているから、藩の学問は坦庵の招致によって、その基が築かれたといえる。
 また、図27に示すとおり、坦庵の子孫も相次いで福井藩の儒官に任ぜられ、在京のままではあったが、藩内教学の振興に貢献した。
 一方、享保六年(一七二一)以降幕末まで福井藩の儒官を世襲し、重要な役割を果たした儒学者の一族に、前田葉庵とその子孫たちがいる。葉庵は京都に生まれ、崎門学の開祖山崎闇斎について朱子学を修めた。初め広島藩にも仕えたと伝えられるが、正徳五年(一七一五)松岡藩主松平昌平に見いだされて儒官となり、享保六年昌平が福井本藩を相続(九代宗昌)するとともに、福井へ移居し福井藩の儒官となった。葉庵の子孫は、図28のように廃藩まで相次ぎ、崎門派の朱子学を継承して、藩の文教の中心に立ったが、その学風は次第に旧式となり、中央の学界から取り残されることとなった。
 安政二年(一八五五)、十六代藩主慶永(春嶽)が藩内教学の刷新と振興のため、本格的な藩校明道館を創設した前後から積極的に中央へ遊学し、最新の学術を吸収しようと努力する藩士が登場した。例えば高野春華・高野真斎・矢島立軒・富田鴎波などがそれで、いずれも江戸の昌平校に通学して、佐藤一斎・安積艮斎・安井息軒・大橋訥庵など、当時有名の儒学者に学んだから、藩の儒学もこれより江戸昌平学派  (朱子学)を中心とするものに改まった。そのほかこの時期には、京都から新たに崎門学を導入した吉田東篁、折衷学派の伴閑山、陽明学に精通した広部鳥道、熊本藩から招聘された横井小楠等が活動し、新しい展開が図られている。
図027 福井藩儒

図27 福井藩儒

図028 福井藩儒前田家系図

図28 福井藩儒前田家系図



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