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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    一 儒学
      江戸時代の儒学
 江戸時代は、儒学が全盛の時代であった。将軍や大名などの為政者が、その学問や教養として儒学を重んじ、儒学の教えが日常の道徳的規範として、広く庶民にまで浸透した。儒学が学問と教育の中心に位置付けられ、思想界や社会の動向に、きわめて大きな影響力をもったのである。
 儒学は、紀元前中国古代の哲人孔子や孟子の教説を、「四書五経」(『論語』『孟子』『大学』『易経』『礼記』など)に代表される経典によって学ぶのであるが、江戸時代の我国では、主眼とする学説やそうした根本経典の研究法や解釈の相違などから、多くの学統学派が形成され発展した。中国宋代十二世紀中頃に登場した朱熹の学説により研究を進めた朱子学派、同じく明代十六世紀初め頃の学者王陽明の教学に従う陽明学派、朱熹や王陽明など中世以降の学者の教説を儒学本来のものではないと批判し、古代の根本経典の中に孔子・孟子の教えを直接見いだすべきであると主張した古学派、それら諸学派の長所を折衷しようとした折衷学派などが、そのおもなものである。
 なかでも朱子学派は、近世朱子学の始祖藤原惺窩(京学の祖)や、その門人林羅山(林家朱子学の祖)が徳川家康に重用され、羅山の子孫が大学頭を世襲して、幕府の文教の中心的役割を果たしたことから、官学・正学と呼ばれ最も大きな勢力をもつに至った。さらに朱子学派からは、山崎闇斎を祖とする崎門学派、木下順庵に始まる木門学派、水戸藩で形成された水戸学派などが分かれ、全国に伝播した。
 陽明学派は、江戸時代前期の中江藤樹、その門人熊沢蕃山などによって唱導された。幕末の天保八年(一八三七)に発生した大塩平八郎の乱の中心人物で、大坂町奉行所与力であった大塩平八郎(中斎)も、陽明学者として知られている。古学派は、山鹿流兵学でも著名な山鹿素行を開祖とし、その学統は平戸山鹿家・津軽山鹿家などに継承されて、各地に伝わった。伊藤仁斎に始まる古義学も、京都を中心に展開された古学の一派で、久留米・和歌山・金沢・秋田等の諸藩に伝播して、大きな力をもった。また、江戸時代中期に登場した荻生徂徠の古文辞学派(・・・・・・園学派)も、古学の系統に属し、徂徠門下の有能な学者たちが、全国諸藩に仕えて一世を風靡する勢いを示した。折衷学派も、江戸時代中期から後期にかけて、井上金峨・山本北山・皆川淇園・猪飼敬所などが全国諸藩に招かれて、学統を伸長させた。
 越前・若狭の各地域にも、これらの学統学派が導入され、それぞれの地域の学問や教育の興隆に力をもった。以下その状況を、各藩ごとに概観してみたい。



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