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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    五 講と信仰
      道場と信仰生活
 真宗門徒の信仰生活は、中世以来、村や小地域ごとに設けられた道場を中心に展開した。道場は、近世に入ると、その一部が寺院化してくるが、奥越の穴馬谷(大野郡和泉村)など、山間部や都市部から離れた農山村地帯では、道場を中心とした真宗の習俗生活が近年まで残存していた。
 道場の典型的なものとしては、現在すでに水没してしまったが、和泉村野尻の道場であり、集落のほぼ中央に位置し、四間半に七間の茅葺寄棟造の小建物であった。一般に道場の内部は、正面に仏壇を備えた仏間(内陣)と坊主部屋が上段の間となっており、仏壇の中央には阿弥陀如来の絵像(方便法身尊像)、右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左に「南無阿弥陀仏」の六字名号の三幅が掛けられているのが普通である。下段の外陣に相当する「ミドウ」と呼ばれる広間にはいくつかの「ろ」が設けられていた。そして、広間における村民の座席もそれぞれの家格によって座順がほぼ決まっていた。道場の管理運営は、毛坊主と呼ばれた有髪の道場役か、あるいは「ご番」と呼ばれる村民の廻り番であった。
図026 野尻道場の平面見取図

図26 野尻道場の平面見取図

写真177 方便法身尊像

写真177 方便法身尊像

 道場の行事は、初期には毎朝、正信偈をあげ、御文章を読む、いわゆる「オアサジ」の行事が一般的であったと考えられるが、次第に各家での朝晩のお勤めに移行していったと思われる。道場では月例の講が中心となり、午前中にお勤めを行い、昼時には「オトキ(お斎)」と称して、一汁に漬物程度の粗飯でもって会食し世間話を交わした。そして、年に一回、十二月に道場に全村民が集まって総報恩講を行い、また、各戸でも在家報恩講が営まれた。これら総報恩講や在家報恩講には道場役が主導して行われる場合もあるが、おもに手次僧(檀那寺の住持)がその村の門徒を廻檀した。
 真宗道場を起源的にみると、自庵と惣道場の二種に分かれる。自庵(内道場ともいう)は、村の有力者が自己の居宅を兼用した道場をいい、やがては一族の者が道場役となって寺院に昇格するものもあった。古い集落のなかに地侍級の旧家に隣接して先祖を同じくする寺院が存在するのは、この例であろう。惣道場は門徒の合力によって始められた道場で、おもに一村同一宗派の場合が多い。このほか、機能的な道場の分類としては、寄合道場・表裏立合道場・毛坊道場・下道場・兼帯道場がある。寄合道場とは二か寺以上の門徒が寄り合って建てたもの、表裏立合道場は東西両本願寺派の門徒が共同で建てたもの、毛坊道場とは、有髪の俗人が道場主である場合をいい、ある寺に所属する道場を下道場・兼帯道場と呼んでいる。これらの道場は、その一部が江戸時代に寺号を得て寺院化するが、残った道場もそのほとんどが現代までに廃滅してしまった。



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