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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    五 講と信仰
      講の発展
 講は、奈良時代には経論を講説する法会を意味したが、平安時代になると、これが転じて信者が毎月一定の日に集まって法義を讃嘆する会合の意味となり、鎌倉時代に入り、これらの信者の集団をも講と称して広く民間に行われるようになった。
 真宗における講の名の初見は、本願寺覚如が永仁二年(一二九四)に著わした「報恩講式」であるとされるが、講の組織が飛躍的に発展するのは、蓮如が吉崎において布教を始めてから以後のことであった。蓮如の教化は、現在確認されるだけでも数十通に及ぶ「御文」(西派では「御文章」)の精力的な述作によるもので、これを信者へ付与しながら急増した門信徒を講に組織したのである。講の本来の意義は、門信徒が互いに信心を深め合うことであって、浄土真宗本来の同行同朋の精神を継承することにあったが、戦国動乱期には、次第にその性格のうえに、門徒等の村落生活の憩いの場としての性格も加わり、やがては彼等の生活の不満のはけ口の場となり、これが行動に転化して一向一揆の蜂起となって現れた。
 講は、朔日講、十三日講、廿五日講など、寄合談合の行われる日を名称とする場合がほとんどである。元来、地方の門信徒は末寺をかいして、その寺檀関係によって間接的に本願寺と結ばれているのに対して、講の組織は、直接的に本願寺法主と門信徒が結ばれるのが特徴であった。したがって、本願寺顕如をはじめ、准如や教如の御書と呼ばれる消息(書状)の宛所はほとんどが講中宛であった。
 早くから本願寺領国となった加賀においては、蓮如時代に能美郡にすでに「四講」が成立しているが、戦国大名朝倉氏による一向宗徒の弾圧下にあった越前においては、講名の明確な初見は遅く、本願寺顕如時代の石山合戦期以降のことになる。顕如消息の宛所にみえる講名は、年未詳の「越前国大野足南十八日講」(美山町法善寺文書)など、いくつか知られるが、講名が頻出するようになるのは、東西分派以降の本願寺両門跡、准如・教如の消息の宛所においてである。講の組織を通じて、両門跡が競って門徒の獲得に奔走したことがうかがえる。
 講の小さいものは、一村から数村、または末寺門徒を単位として形成される。一村単位の事例としては、「吉田郡今泉村廿四日講」(「准如消息」福井市西誓寺文書)、「河北勝蓮花寺村三日講」(「准如消息」吉沢康正家文書 資4)、「和田郷下馬村廿八日講」(『教如上人御消息集』)で、数村単位のものとしては、「河合庄下ノ郷タカヤ(高屋)村・山ムロ(室)村十五日講」(「教如消息」高屋・山室十五日講共有文書 資3)、「坂北郡本堂・布目・池上・舟津村廿四日講」(「教如消息」芦原町寂静寺文書)、「杉谷村廿八日講」(「宣如消息」広善寺文書)である。また末寺門徒を単位とするものは、「福井御坊十七日講」(「寂如消息」伏石常興寺記録)、「長慶寺門徒二日講」(「准如消息」東大史料影写本)、「石田西光寺門徒十六日講」(「准如消息」西光寺文書 資5)の例がみられる。
 中規模の講は、城下町などの町場や特定の地域を包括した講である。「准如消息」に見える「越前丸岡廿五日講」(受法寺文書 資4)は、「顕如消息」に見える「越前国まる(丸岡)村々廿五日講」(同前)を継承しており、北庄城下では、西派の「北庄廿四日講」「北庄廿八日講」(「准如消息」福井市興宗寺文書)に対して、東派でも「北庄廿五日講中」や「越前石場廿八日講」「同五日講」(「宣如消息」広善寺文書)が組織されていた。
 広域に成立した講は数十か村で組織されていた。「顕如書状」(西念寺文書 資7)の宛所「北袋五十三村中へ」が、「准如消息」(賢勝寺文書 資7)の「北袋十六日講」に組織され、さらに「広如消息」(賢勝寺文書)では、「越前北袋五十三村并勝山町十六日講」に発展した。このほか、「越前山干飯保内八日講」(「准如消息」敬覚寺文書 資6)、「越前ニシカタ廿日講」(「教如消息」三国町浄願寺文書)や「越前国十二ケ寺坊主十五日講」(「宣如消息」同前)も、この規模の講であろう。
 越前における最大の講組織は、九頭竜川を境に南北に分かれる「越前川北廿五日講」(「法如消息」大野市常興寺記録)と「越前川南十三日講」(「准如消息」西光寺文書 資5)の惣講である。とくに「越前川南十三日講」は、「川南十三日講由来」(鯖江市称名寺文書)や鯖江市福正寺記録などによれば、本願寺の東西分派前後、東派の教如方が進めた強力な門徒獲得運動に深い危機感を抱いた西派が、これに対抗して結成した講で、寛永十一年(一六三四)に本願寺良如より下付された「准如上人真影」を講仏とし、陽願寺・西光寺・福正寺・正立寺・称名寺を講頭として運営された講である。その後、江戸中期に下付された本願寺十七代法如消息(「伏石常興寺記録」)の宛所では、「越前国御戸講、河南十三日講中・河北廿五日講中・同中領講中・同福井講中・同大野勝山町在講中」とあり、越前一国の主要な講をかいして西派の越前惣門徒に呼び掛けた消息となっている。かくして、西派の大小の講中は越前一国だけでも二一七講に達したという(『本願寺史』)。



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