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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    四 真宗諸派騒動
      西本願寺宗意一件
 宝暦年間、福井城下浄願寺竜養が無帰命の邪義を唱導したとして、西本願寺は同十二年二月、足羽郡平乗寺功存をして糾明させ、ついに回心させた。この時、功存の教誡を記録したものが「願生帰命弁」で、当流の信心は身・口・意の三業をそろえて弥陀に頼む(三業帰命)のが本則であるとした。この法譚は、西本願寺法如法主をはじめ各界において破邪顕正に大いに役立ったとして讃嘆され、明和五年(一七六八)功存が西本願寺の第六代能化(学頭)に就くと、三業帰命の義はその門弟によって各地に流布するに至った。しかし、三業帰命説は、学林周辺では盛行したものの、在野の学匠は必ずしも同調しなかった。天明四年(一七八四)泉州の大麟が、まずこの論駁の端緒を開いたが、学林側はただちにこれを論服した。
 功存の死後、寛政八年(一七九六)九月、浄教寺智洞が七代能化を継いだが、智洞の新義講説に対して古義派が反発し、智洞と古義派の道隠(河内の西念寺)が対決するに至った。本山は、学林の混乱を招いたとの理由で両者を処罰したが、智洞が改めて自然三業説を提唱したため、智洞を赦免して一応の決着をみた。しかし、本山の安心問題に関する対応が優柔不断であったので、かえって安芸門徒をはじめ、諸国の門信徒に安心についての疑義を深めさせる結果となり、三業惑乱となって全国に波及し、やがて幕府への提訴事件に発展した。幕府はこれを鎮めるため、文化三年(一八〇六)七月裁決を下し、道隠等の学説を古義、智洞一派の学説を三業新義または新義とし、その提唱者智洞を遠島に処し、騒動の因となった西本願寺を一〇〇日間の閉門とした。多数の末寺門徒を擁する越前においても、この西本願寺宗意一件は、三業惑乱として大きな騒動へと発展した。「家譜」によれば、越前において俗門徒の騒動が目立つようになるのは享和二年(一八〇二)頃からであった。以下、「家譜」によって騒動の経過を追ってみたい。
享和三年十月、西本願寺掛所(西別院)輪番から福井藩に提出された願書は、宗意安心の儀についての門徒たちの申立てを本山に提出しても、江戸公訴中との理由で受け付けられないため門徒の騒動も心配され、藩より本山への掛合を要請するものであった。藩はその対応に苦慮し、「元来宗法の儀に候えば、取計難き筋も有之」として、輪番の口上書に添状を付し幕府寺社奉行に送達するにとどまった。翌文化元年十月には越前西派一〇一か寺の連印状が藩に提出されたが、これもまた幕府にその指図を求めるのみであって、幕府からの回答も、裁決が下るまでその対応を延期するようにとのことであった。 写真176 宗意について組下村々請印帳

写真176 宗意について組下村々請印帳
 文化三年七月、幕府の裁許により新義派と本山が同時に処断され、本山の一〇〇日間の閉門にあわせて福井掛所も閉門が命じられた。しかし、安心の決定に不安を抱いた門徒は掛所へ大勢押し寄せ、教化を求めて閉門を阻止しようとした。翌四年二月二十九日には、福井木田町長慶寺へ五〇〇人ほどの俗門徒が寄り集まり、「宗意安心之儀承度由」を申し張って寺内に乱入し乱暴狼藉を働いたので、藩は騒乱の拡大を危惧して、以後門徒の集会を厳しく禁止した。ただし、藩は、長慶寺と寮村勝縁寺が古義派に属する寺院であることは認知していても、暴徒による長慶寺乱入の誘因については十分な理解はなかったようである。
 元来、宗意一件は、本山を頂点とする学林と、在野の学匠との信心をめぐる学説的論争に端を発しており、俗門徒たちの理解を超越した分野であったから、在来の安心によって満足してきた門徒が、これによって信仰に不安を感ずるのは当然のことで、ひたすら本山や手次寺に正しい教化を求めての騒乱であった。したがって、幕府の裁断が下っても門徒の信心決定には何らの影響を与えるものではなかった。同年四月、本山が藤島超勝寺や掛所役寺等を上京させようとしたさい、両所の寺僧のみ本山の教化を受けて帰国しても門徒の納得が得られないことを恐れた藩は、寺僧とともに門徒総代の上京も求めた。また、本山よりの教化僧の下向や、福井掛所輪番の本山への派遣にも藩は慎重な態度で臨んだ。いずれも門徒動揺を恐れての処置であった。
 幕府の裁断後に下された門跡文如の教化の御書が、やはり従来の安心と異なることに疑義を抱いた門徒たちは再び騒乱に及ばんとし、一部の末寺もこれに呼応したため、藩は幕府にこの事態を報告した。文化八年十二月、幕府寺社奉行は真偽を確かめるため落井正立寺・今泉西誓寺等六か寺に、また勘定奉行は布目長法寺・轟木浄光寺と坂井郡野中村・吉田郡光明寺村百姓等四名にそれぞれ江戸出府を命じた。このため越前国内は再び激しく動揺し、翌年二月には、五、六〇〇人から二、三〇〇〇人、時には一万に及ぶ門徒が城下の掛所に連日参集して、江戸出府の猶予を求めた。藩は、これを鎮めるため幕府と合議の結果、翌九年五月、「本山教化通り聊か違背仕間敷旨」の末寺・門徒総代の連印状を提出することによって江戸出府を取りやめ、本山願下げとなり落着した。ところが、同年十月、掛所輪番西秀寺と使僧が京都より着任すると、翌月、俗門徒が大勢掛所に詰めかけ、輪番に安心向の説法を要求して騒ぎ立て、堂内にまで乱入して乱暴狼藉をきわめ、その後も連日門徒が掛所に集合して騒動を重ねたため、福井藩は役人を出張させ警護取締りに当たった。騒動は十二月にはいったん鎮静したが、その後も時折騒乱が続いたため、文政五年(一八二二)正月に至り福井輪番は藩の許可を得て門末最後の糾明を行い、ようやく惑乱の決着をみた。しかし、この影響はその後も長く尾を引いた。
 



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