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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    四 真宗諸派騒動
      東本願寺派百か寺騒動
 真宗東派の触頭東御坊は、北庄総坊根本の町方直参門徒と、結城引越本瑞寺に付随する三河出身の武士門徒を抱える特殊な真宗寺院であった。とくに武士門徒中の最大の檀越は、結城秀康と従兄弟関係にあり、家老職をも勤めた一万五〇〇〇石の永見志摩守吉次で、寛永末年の大火で東御坊が焼失すると、その下屋敷地を寄進して慶安年中(一六四八〜五二)堂宇を再建した。現在の東別院の境内がこれである。
 やがて武士門徒が東御坊の宗務にも関与して発言権を強めてくると、この干渉に反発して、九か寺の一寺欽迎寺善竜は決然と対抗したが、永見吉次の妨害により成功せず、西派へ改派して円覚寺と改号した。当時、本瑞寺の住職竜華院宣亨は病弱気味であったため、東本願寺は寛文十二年、その補佐役・後見役として善林寺祐空と称念寺寂祐の両人を選任した。善林寺は総坊九か寺の筆頭として御堂衆を統括する地位にあり、称念寺は越前国内に末寺道場十数か寺を有する大坊であった。延宝四年の吉崎山上争論のさい、江戸寺社奉行所においてめざましい活躍をしたのも両寺で、これにより東本願寺家老坊官との結び付きは一層深まり、その権力を背景に越前東派宗門に絶大な発言権を有するようになった。
 両寺の専権に対して、本瑞寺惣同行衆は結束して排斥運動を起し、延宝七年七月には、越前国惣同行中より両寺の非法・専横を七か条にしたためて本山五家老に提出したが、無視されてしまった。しかし、末寺や惣同行から高まる不満の声、広がる排斥運動に抗しきれず、天和元年(一六八一)両寺は自ら御坊出仕を止め、寺内に逼塞して、騒動もようやく収まるかのように思われた。
 天和三年四月、東御堂で執行された東本願寺の前門跡琢如上人十三回忌法要が、百か寺騒動の直接の誘因となった。この法要に、三か年御堂出仕を遠慮していた善林寺・称念寺が、読経中の礼拝を願い出て許され出仕したのを見た反対派の諸寺院は、読経中に一寺、二寺と引き上げ、百か寺残らず退席したため法要はまったくの不興に終わった。これを両寺に対するたんなる嫉妬心とみた東本願寺は、事態を厳しく糾弾し、同年七月、本山使僧法順坊を越前に差し下し、首謀者九か寺を宗門から追放して一応事件は落着したかにみえた。
 しかし、この東本願寺側の一方的処断によって事態は一層紛糾し、反東本願寺派の百か寺は団結して西派への改派運動を展開した。当時の西別院輪番僧が記した日記と考えられる「百箇寺騒動略記」(高嶋文庫)には、天和三年七月から翌年正月までのあわただしい西派帰入状況とともに、三〇か寺以上の改派が確認される。改派は寺院のみに限らず、在家門徒の単独離檀もあったが、本瑞寺直参であった武士門徒もいっせいに西派に改派した。当時、二一五〇石の松原右衛門など同族七人(五家)をはじめ、柳原・花木・堀・高田氏などの知行取や切米取・扶持米取を含めると、約五〇家以上に及んだ。かつての永見吉次を頂点とする武士門徒も、善林・称念両寺の宗務干渉を許していた東本願寺に強く反発していたことがうかがえる。
 百か寺騒動の誘因は、法義の論争からではなく、善林・称念両寺に対する同門寺院の嫉妬心に発しているため、寺院がいったん改派したものの、門徒の同意が得られずに、再び東門に帰参する寺院が続出した。吉田郡海老助村善照寺は七月十三日に西派に改派したが、「如何にも帰参の儀、最前同心仕候ても弐百計ノ旦那、漸々拾五家付来候、此躰にて候故、両親殊之外迷惑に存じ、渇命に及び候故、是非に帰参の儀無用と達て歎き申候に付、是非に及ばず」として、翌八月十三日の夕刻再び東派へ立ち帰った。長法寺は坂井郡布目村の東派の一村惣道場であったが、長法寺を擁して西派へ帰参した門徒と、東派へ残留して本瑞寺の直参となった門徒に二分された。また、丹生郡笹谷村乗泉寺のように、一寺が東西両派の二寺に分かれた例もあった。
 「大谷本願寺通紀」の天和三年七月の記事に「越前東門下諸寺、来りて吾門(西派)に属す、世に東門百箇寺騒動と称す、初め来りて帰る者、凡そ一百寺許、いまだ幾多もせず旧に復すと云」(巻三)とある。この頃、敦賀郡を除く越前の東派寺院は約一二〇か寺と推定され、騒動に中立の立場にあった一七か寺を除くと、ほとんどが西派に帰したことになるが、しかし、その多くは再び東派に復したというのである。したがって西本願寺では帰参寺院の認可は急がず、騒動から約二〇年後の元禄末年より享保初年にかけて木仏裏書の帰参銘替えを行っている。そのまま西派にとどまったのは十数か寺にすぎなかった。 写真175 百箇寺騒動略記

写真175 百箇寺騒動略記

 この百か寺騒動は、一つ誤れば門徒の騒乱にも発展しかねず、福井藩はただちに「御家中下々に至る迄宗旨改る儀御構いこれ無く候えども、東西の事、何かと相争騒動これ無き様」と家中・町郡両奉行所へ申し渡して、ひたすら不干渉に徹したが、さらに「騒動仕らざる様に面々組下村々諸百姓へ堅く申し渡すべく候」と在々へ触書を出している(「百箇寺騒動略記」)。一方、東本願寺宗門にも多大の禍根を残したため、東御堂の再建をはじめ東派宗門の興隆に努めたが、延享元年(一七四四)本瑞寺七代性応の死後、連枝住職を廃して、本山から役僧を派遣して寺務を統括する東本願寺掛所、輪番所となった。しかし、本山から派遣された御坊輪番と越前諸末寺とのあいだには確執が絶えなかった。
 宝暦八年(一七五八)、時の東御坊輪番の盛泉寺は三一か条にわたって福井末寺の非法を本山に内奏し、これに対し福井一二か寺は、反論した覚書(「越前福井御坊」大谷大学図書館蔵)を本山に提出している。福井一二か寺とは、称念寺・浄得寺を筆頭にかつての九か寺総坊に起源を有する諸寺であったが、これらの諸寺が本瑞寺の連枝格寺院として復帰を画策しているというのが、盛泉寺の内奏の趣旨である。百か寺騒動の余韻ともいうべきであろうか。



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