延宝元年(一六七三)東本願寺が山上の旧跡に御堂建立を福井藩に願い出て許可されると(「御家老中御用留抜再編」 松平文庫)、西本願寺はこれに強く反対し、ついに東西両本願寺の争論にまで発展した。この対応に苦慮した藩は、やむなく幕府の裁定に委ねて江戸公訴となり、延宝五年幕府の裁決が下った。東派に対しては「吉崎山上へ寺再興之企之時、公儀へ届無之段、東方越度ニ而候事」、西派へは「東方より三月廿五日之法事、七十年以来無懈怠相勤候を、西之旧跡と存候ハゝ可相改処、其通ニ而差置候儀越度ニ而候事」とし、「右何茂誤有之、且又論所之旧跡依為要害地破却被仰付候」と命じて落着した(「御用諸式目 」松平文庫 資3)。
このように幕府は、三方を北潟湖に囲まれた吉崎山(通称を御山)を要害の地として山上への寺再興を許可しなかったため、両本願寺はそれぞれ山下に道場を建てた。これが現在の両派の吉崎別院である。なお、毎年京都東本願寺から蓮如の御影が門信徒の担ぐ輿で旧北陸道を運ばれ、四月二十三日の夕刻、別院に到着すると、五月二日までの一〇日間「吉崎御忌」として賑い、その間は御影を開扉して、御忌が終わると再び京都に帰るという、蓮如信仰の行事が現在も続いている。 |