真宗高田派の専修寺十代真慧が永正九年(一五一二)死没すると、常盤井宮家から入室して真慧の付弟となった真智と、僧籍を好まなかった実子応真を擁立した一派とのあいだで跡目をめぐる対立が発生した。大永二年(一五二二)に一時和議が成立するがまもなく破れ、真智は勝鬘寺等越前の高田派大坊に迎えられて坂井郡熊坂に専修寺を建立し、応真の流れをくむ伊勢一身田専修寺門徒とのあいだで本寺を主張して争論が続いた。天正九年(一五八一)真智が没すると、熊坂専修寺も一時没落するが、真智の付弟真能が松平忠直から一二石の寺地の除地を認められて丹生郡畠中に専修寺を再興した(『片聾記』)。しかし伊勢専修寺はこれを認めず、寛永十一年(一六三四)幕府に訴え、翌年越前専修寺真教(真能の付弟)方は敗訴となった。末寺門徒は真宗仏光寺派・浄土宗などに改派改宗した者もあったが、門徒の大部分は東本願寺に帰参し、福井藩に強く帰入を働きかけた伊勢専修寺へは一人も帰参しなかった。寛永十三年九月、福井藩の奉行所に提出された西方領山中百姓等の目安(三重県専修寺文書)には、一身田へ参れとの御事、めいわく(迷惑)仕候、今生浅間敷(あさましき)木こり・炭やき共にて御座候へは、偏に来世の快楽を請度存、朝夕いとなみ仕る中からも、うき世のくつう(苦痛)ひつはく(逼迫)の中からも、只来世を願ひ申候処に、地獄へ落可申と申寺へ可参儀、何共何共めいわく仕候御事、と述べており、宮上人(真智)の門弟として、すでに起請誓紙を交わしていた門徒の悲痛な叫びが文中に秘められている。 |