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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    三 真宗諸末寺の動向
      末寺の官職昇進
 本願寺における僧侶の階級いわゆる僧階は、八代蓮如時代から漸次形成され、次の実如時代には一門一家衆と一般坊主衆の別が定まった。一家衆とは本願寺法主の一族(連枝)が住持する特権的寺院であった。東西分立後にあっては、諸制度の完備とともに僧階も細分され、初期の西本願寺では、院家・内陣・余間・廿四輩・初中後・飛檐(国絹袈裟)・総坊主の僧階が存在し、僧階に応じ法会等における着座順位が定まっていた。院家・内陣・余間は三官と称せられ、戦国期の一家衆から生じた階級であった(『本願寺史』)。慶長期から寛永期の「西本願寺末寺帳」(大谷大学図書館蔵)によれば、越前における院家衆は福井照護寺・藤島超勝寺・三国勝授寺・吉江西光寺・大野教願寺・東郷照恩寺、内陣衆は荒川興行寺、一家衆(余間衆)は勝山尊光寺・落井正立寺・下唯野南専寺・栃川西光寺(のちに美濃国へ移る)・和田本覚寺・宇坂本向寺であり、三官と称せられる寺院は一三か寺であった。
 寂如時代(一六六二〜一七二四)になると、三官は門地に限らず礼金によっても昇進できるように改められた。しかし、これも領主などの強力な推挙があってはじめて実現したらしい。「御家老中御用留抜集」(松平文庫)宝永五年(一七〇八)十一月二十九日条によれば、「宇坂本向寺、京都へ呼ばれ、本山において、本向寺先祖本山へ忠節これ有るにつき、院家申付られ候由」とあり、「本向寺先祖本山へ忠節」とは、文明六年(一四七四)三月の吉崎御坊火災の時、本向寺五代の了顕が火中に身を投じて蓮如の聖教を守った(腹篭りの聖教)という故事を指すものと思われるが、十二代祐忍と親交の厚かった福井藩主松平吉品の推挙があってこそはじめて院家に昇進し得たのであった。
 福井城下の西御堂東隣の興宗寺も本向寺と同じであった。興宗寺は、開基行如が十四世紀初頭、坂井郡長畝郷田島に一宇を建立し、応長元年(一三一一)足羽郡大町で本願寺三代覚如の教化を受けた(「反故裏書」)ほどの古刹ではあったが、門地寺院ではなかった。慶長十三年越前ではいち早く飛檐坊主となり、正徳元年には、礼金二〇〇両を本願寺に納入して内陣列座となった(興宗寺文書)。次いで、「御家老中御用留抜集」享保八年五月十三日条によれば、「御堂町興宗寺、院家に進申度旨、豊姫様へ相願候につき殿様より本願寺へ御頼なられ、本多武兵衛御使者にて本願寺へ遣わされ候事」とあり、興宗寺は最高の寺格である院家昇進を画策した。「豊姫」とは、烏丸光栄に嫁した六代福井藩主松平網昌の娘のことで、興宗寺と何らかの関係があった豊姫が、時の藩主宗昌を動かして本願寺へ交渉したらしい。しかし、本願寺は寺法に障ることを理由にこれに応じなかったため、松平家は西別院の裏地、四反四畝半を本願寺に寄付してその実現を強く要請した。本願寺はやむなくこれを功績と認めて享保十年六月、ついに興宗寺の院家昇進が実現した。
 坂井郡山久保村受法寺は、もとは好善寺と号し、荒川興行寺末寺であった。当寺四代修法に深く帰依した丸岡藩主の本多重昭は、本願寺に好善寺の院家昇格を働きかけたが、本願寺はやはり寺法を理由に応じなかった。これに立腹した重昭は、領内の西派寺院を改派させることも辞せずとの強硬な交渉を進めて本願寺を譲歩させ、院家昇進は不可能であったが、寛文十二年、座位百六十人目の飛檐官であった好善寺に座位八人目の土佐国受法寺の浮寺号を与えることにより、飛檐官の上座進出が実現した。ただし、興行寺末寺からの離脱は認められなかった。なお、浮寺号となった好善寺の寺号は、後に今立郡不老村覚円寺に譲渡された。
 寺号免許や法宝物の下付、官職昇進については、当然のことながら、本山への礼金や冥加金の納入が必要であった。西本願寺の場合、「公本定法録 上」(「大谷本願寺通紀」)によれば、おもなものでも、木仏御礼五両二分、木仏寺号御礼一一両、開山(親鸞)絵像下付二四両二分、永代飛檐御礼三三両一分、永代内陣(院家)御礼金五〇〇両であった。仏光寺派の西雲寺(福井市武周町)の記録でも、内陣より院家への昇進は金五〇〇両であったが、このほかの付届けを含めると膨大な金額となった。このような本尊・聖教・堂班等の免物、官職の昇進に必要な冥加金のほか、定期的に上納する年頭・中元・報恩講の御礼金は、門跡をはじめ、坊官・堂衆、その他本山抱えの職人に至るまでを支える本山にとっての大きな財源であった。しかし、これも結局は、信心深い地方の門信徒の懇志を集めての志納金によって賄われたことを忘れてはならない。



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