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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    三 真宗諸末寺の動向
      本末制度と寺院の改派
 幕府による寛永九年の寺院本末帳の作成令にみられるように、幕府の重要な仏教統制策の一つが本末制度の確立にあったことはいうまでもない。本末組織は、本山と地方末寺との関係のみならず、地方においてもまた、本山を頂点として、中山格寺院―末寺―道場といった重層的な関係を成立させた。法脈でもって次々と末寺が末寺を開立する曹洞宗などとは異なり、一向宗の本末関係は、本山―上寺(中山)―下寺の単純な関係が多いが、一部には次のような本末関係もみられる。本山(西本願寺)―京都興正寺―下森田浄因寺―寺中永宗寺
 このような地方の有力寺院と末寺道場との本末関係は、中世にさかのぼると考えられるが、どのような経緯でもって結ばれたかは、必ずしも明確ではない。
 越前の有力寺院の末寺門徒分布をみると、本覚寺と超勝寺の場合は吉田郡東部を中心に坂井郡・大野郡にかけて、照護寺は足羽郡、真宗寺は今立郡に集中する。このことは、上寺の寺基草創地と布教地盤との関係を示唆するものであるが、他方、独立した各村の惣道場が、本山への寺号免許の願状を提出するさいに近辺の有力寺院に取次ぎを依頼したため、その取次ぎ寺院と本末関係が生じた例も多い。また、勝山城下の西派寺院に本覚寺と寮の勝縁寺(福井市)の末寺が多いのは、天正二年(一五七四)三月の平泉寺攻略のさいの本覚寺・勝縁寺を大将とする一向一揆軍団組織に起因するものとも思われる。
 上寺・下寺との関係については、「公儀へ被仰立御口上書等之写」(『本願寺史』)に、「上寺中山共申候と申は、本山より所縁を以、末寺之内を一ケ寺・弐ケ寺、或は百ケ寺・千ケ寺にても末寺之内本山より預け置、本山より末寺共を預け居候寺を上寺共中山共申候」とあり、上寺の役目は下寺から本山へ寺号・木仏・絵像・法物・官職・住持相続等を願い出るとき取次ぎをしたり、下寺に違法がある場合、軽罪は上寺が罰し、重罪は本山に上申して裁断を仰ぐ、と規定されている。このように、下寺は元来本山より上寺に預け置かれたのだと規定されていても、下寺から本山への上申は、すべて上寺の添状が必要であり、そのための上寺への礼金支出のほか、正月・盆・報恩講などの懇志の納入など、下寺の上寺への従属性、上寺の下寺に対する支配権など、かなり厳しい関係が存在した。したがって、時には上寺の横暴に下寺が耐えかね、あるいは、下寺の強い直参化要求によって、下寺の上寺からの離末、本山への直参化がしばしば試みられた。しかし、「本末は之を乱さず」との幕府の宗法によって、たとえ上寺の非法が認められたとしても、下寺の悲願は実現不可能であった。当時の幕令では、改宗は禁じられていても、一向宗派間の改派は不問とされていたから、下寺の離末・直参化の道はただ一つ、改派する以外にはなかった。ただし、門徒も改派に同意するか否かが問題となり、これがまた改派を阻む要因でもあった。

表130 西流中山格寺院の末寺数一覧

表130  西流中山格寺院の末寺数一覧
               注1 *は孫末寺院1を含む.**は越前国内に存在する末寺数.
               注2 明治中期成立の「末寺附属下寺調査簿」(西本願寺蔵)によ
                  り作成.

 前掲表130は、明治初年の下寺数を表にしたものであるが、越前国内の有力寺院を上寺とする下寺数は一五〇か寺を数えた。なかでも、真宗寺・照護寺・本覚寺の下寺数が多いのは、三か寺が福井西本願寺掛所(西別院)を補佐しながら、本山との太いパイプを背景として寺号免許を競って取り次ぎ、下寺の増加を強力に進めた結果とも考えられる。
 表131と表132は、東西両本願寺派にそれぞれ改派した寺院を表にしたものである。改派は江戸中期に多くみられ、したがって、改派した下寺といっても江戸初期に寺号を許された古寺級が多い。特異な例として、丹生郡御油村正願寺は、初め西派の栃川村円福寺末寺であったが、万治二年(一六五九)東派に改派し、天和三年の百か寺騒動で西派に再帰参して西本願寺直末となった寺院である(「百箇寺騒動略記」高嶋文庫)。また、百か寺騒動で百か寺の東派寺院が西派に改派したものの、その多くはまもなく東派に戻り、十数か寺のみ西派に残った。一方、越前における小教団であった三門徒系の四派と、仏光寺派の寺院から東西両本願寺派への帰参も特異な傾向であった。なお、改派の要因については不明な部分もあるが、教義や宗論など宗門的なことよりもむしろ、座配争論や上寺との権力争いなど世俗的な事由によって改派する例が多かったようである。以上のごとく、封建制下にあって、中山格寺院に支配されてきた下寺も、明治十一年に新寺の寺号公称が認可されると同時に、一部の寺中寺(塔頭)を除いて、すべて本山の直末寺院となった。

表131 東派への改派年代

表131  東派への改派年代
注) 称名寺文書などによる.


表132 西派への改派年代

表132  西派への改派年代
             注1 *現在の円覚寺.
             注2 「百箇寺騒動略記」や各寺院記録により作成.



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