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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    三 真宗諸末寺の動向
      道場の寺院化と新寺建立の禁止
 一向宗の道場が一寺となるためには、本山から寺号が免許されなければならない。寺号免許には当初、「木仏寺号」と「御影寺号」という二つの方法があった。木仏寺号は本山が木仏(阿弥陀如来像)を下付する時、法主が木仏裏書に寺号を染筆して願主に渡すことである。また御影寺号は、すでに木仏の安置されている道場に対するもので、開山(親鸞)・蓮如・顕如・准如(西派)・教如(東派)・太子・七高祖など絵像の下付にさいして、その裏書に寺号を染筆する方法であった(写真171)。

写真171 長慶寺御影裏書

写真171 長慶寺御影裏書

 江戸中期になると、すでに木仏・絵像の完備した道場や、まずは寺号を優先的に願望する道場においては、寺号のみを折紙で下付する場合も多くなった。これを紙寺号と呼ぶ。鯖江市上戸口町正源寺(東派)の例がこれである(写真172)。
写真172 正源寺紙寺号

写真172 正源寺紙寺号

 後掲表129は、寺号開立の年を年代別に表示したものである。これによれば、中世末期、越前において寺号を有する本願寺系寺院は二〇数か寺しか確認できず、慶長期以降になって急激な寺院化の進展がみられる。このことは本願寺の東西分立によって両派があげて門末の獲得に奔走したことにも起因するが、とくに寛永期以降、経済的基盤となる門徒の組織化が進み、これら門徒の懇志を集めて本山に礼銀を納入し、続々と寺号が免ぜられたことによっている。このように、一向宗をはじめ諸宗諸派の寺院建立が増加するなかで、寛永八年幕府は諸国の寺院を古跡と新地に分けて整理し、新地に寺を建てること、すなわち、新寺建立を厳しく禁止した。しかし、その後も法令の徹底を欠いたので、寛文八年新地奉行を置いて厳しく統制を加え、さらに天和三年には、武家諸法度の中にまで新地寺社建立の停止に関する条文を加えている。先に述べたように、寛文期に成立した「越前国寺庵」の原台帳こそ、古寺・新寺の規範になったものと思われる。

表129 年代別真宗寺院の寺号免許数

表129  年代別真宗寺院の寺号免許数
      注1 +は帰参寺院,−は転派寺院.
      注2 *の(  )内の数字は両派に分立した寺院の内数である.
      注3 **は年代が不明なもので,「越前国寺庵」にあるもの.
      注4 真宗各寺の文書・記録や「木仏之留」・「申物帳」(大谷大学図書館蔵)・西本願寺記録等
         により作成.

 たび重なる新寺建立の禁止令にもかかわらず、一向宗道場の寺院化は減少しなかった。これらの新寺は、本山から寺号を下付されても藩庁ではこれを寺院として認めず道場格であった。このような寺号は「本山限りの寺号」、または「呼寺号」と呼ばれた。現在の坂井郡丸岡町今市の聞光寺(西派)について「一向宗 永勝 本寺にては聞光寺と唱ふる由、役所にては道場の取扱なり、寺号をゆるさず」(『越前国名蹟考』)とあるのが、この例である。なお、名蹟考では坂井郡金津領西今市村の項に誤って挿入されている。
 東本願寺には、文化三年(一八〇六)頃作成されたと推定される東派末寺の寺号帳が伝来する。「元浅草御坊蔵」とあるから、幕府寺社奉行との交渉に当たった東本願寺の江戸掛所(浅草御坊)に備えられた台帳であったと思われる。これに記載される越前国内の寺名(敦賀郡を除く)は、寺院一四八か寺、寺中(塔頭)八か寺、道場四〇か所である。寺院一四八か寺は、元禄期(一六八八〜一七〇四)より享保五年(一七二〇)以前に何らかの理由により寺号を下付され古寺として記載された数か寺と、他派からの改派八か寺を除けば、他のすべてが天和期以前に寺号を与えられた古寺である。いずれにせよ、新寺建立禁止令が出されて以降、寺号を公称できた寺院は減少した。これに対し、道場四〇か所はたんなる道場ではなく、延宝期以降、文化三年までに、本山に限って「呼寺号」を許された新寺である。
 江戸中期以降になると、主として天台宗・真言宗などの旧仏教系寺院のなかには、「浮寺号」として台帳に寺号のみ残る廃寺が目立つようになった。呼寺号では満足できない一向宗の道場のなかには、これらの浮寺号を買得することによって、藩庁の寺院台帳上の寺号移動という形で古寺になろうとする道場が現れた。「御家老中御用留抜集」(松平文庫)寛保元年(一七四一)十二月十六日条によれば、北潟浦安楽寺(真言宗)末寺秘鍵寺の浮寺号を足羽郡花堂村道場智歓に譲渡、また、寛延三年(一七五〇)四月二十九日条にも、豊原寺(天台宗)花蔵院所持の円蔵寺の浮寺号を宿浦道場円瑞に譲渡した記録が見られる。とくに、足羽郡角原村の浄得寺下道場(東派)では、天和二年に本山から良栄寺の呼寺号を許されたが、寛保三年には大和国から浄尊寺の浮寺号を買得して改号した。しかし、他国からでは古寺号移転が不可能であったのか、文政八年(一八二五)に豊原寺から願正寺の浮寺号を買得して現名となるなど、再度にわたって改号している(願正寺文書)。
 このような古寺号の譲渡に対し、宝暦五年(一七五五)十月二十二日、福井藩は次のような禁止令を発した(「御家老中御用留抜集」)。
 寺号譲受けの儀、別紙の通り支配頭へ仰付けらる、近来、寺地これなき浮寺号の儀、同宗他宗に限らず旧寺号相対をもつて譲り請け候旨にて願出で候に付き、御吟味のうえ仰付けらる類もこれあり候えども、以来は御取上げこれなく候間、左様相心得らるべく候、但し近年迄寺地相立ち、水帳に記しこれある事に候はば、吟味のうえ相達せらるべく候、
 しかし、このような禁止令も江戸後期になると、次第に徹底されなくなった。足羽郡高木村の道場(東派)は、正徳二年(一七一二)了円寺の呼寺号を本山から許されるが、文化十一年に木田持宝院所持の黒竜山寂静院の浮寺号を六〇両で買得し寂静寺と改号、さらに、一五両の冥加金を納入して東御坊本瑞寺支配から離脱し、自庵御免となった(福井市寂静寺記録)。この寺号譲渡については、「御城下諸事之部」(松平文庫)に、次のような記事が見える。寂静院、一向宗へ譲り受け候えば、以後真言宗一ケ寺減じ一向宗一ケ寺増す、かさねて御書上げ等これある節は、以前まで差出し候とは一ケ寺づつ増減これある様に相成り候に付き、公儀御尋等これある節は、両本山相対のうえ寂静院儀一向宗に罷成り申し候旨御答にて相済ますべき、
 つまり、公儀に対しては浮寺号譲渡ではなく、寺院の改宗という形で処理しているのである。江戸後期になると、東西両本願寺をはじめ真宗諸派は、末道場に次々と呼寺号を免許していくが、これらの新寺は、明治十一年(一八七八)、当時の石川県庁からようやく寺号公称を許されるのである。



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