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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    三 真宗諸末寺の動向
      幕府の宗教政策と「越前国寺庵」の成立
 幕府は、慶長期(一五九六〜一六一五)より元和二年(一六一六)にかけて、有力寺院や各宗に対して次々と寺院法度を発するが、一向宗(真宗)にも適用されたものとしては、寛文五年(一六六五)に発布された各宗共通の諸宗法度が最初であった。このような寺院法度の発布と平行して、諸宗諸派の本末関係を固定することも幕府の重要な仏教統制策の一つであった。寛永九年(一六三二)幕府は諸宗に対して寺院本末帳の作成を命じ、翌年提出されるが、官庫に一向宗諸派の本末帳が伝来しないことから(「諸宗末寺帳」)、その作成提出は不備に終わったものと考えられる。
 以上のごとく、寺法や本末改が旧仏教諸宗派を中心に進展したのに対し、一向宗諸派のそれが相対的に遅滞したと思われる要因としては、慶長期の東西両本願寺の分立、高田派における伊勢・越前両専修寺間の本寺争いなど、一向宗派内の本末関係がいまだ流動的であったこと、これとあわせて近世初頭以来、幕府のキリスト教弾圧と島原の乱以降の寺檀制確立の過程にあって、寛永期前後に民衆を檀那とする一向宗道場が急激に寺院化したことが考えられる。
表128 真宗寺院数一覧

表128  真宗寺院数一覧
注) 「越前国寺庵」により作成.

  幕府の宗教政策に従って、諸大名も藩内における寺院の掌握と統制の必要から、国別や藩内の寺院台帳の作成を進めた。越前国に関しては、江戸中期から後期にかけて筆写されたと推定される数種の「越前国寺庵」(『越前若狭地誌叢書』)が伝来するが、これらのもとになったものが、敦賀郡を除く越前における各宗各派の寺院台帳であったと考えられる。この「越前国寺庵」には、天和三年(一六八三)の百か寺騒動で東派から西派に改派した寺院の一部が両派に混乱して記載され、また、延宝期(一六七三〜八一)以降に寺号を下付された寺名は記載されていないことなどから、寺院台帳は少なくとも延宝期以前、おそらく寛文期に成立したものと考えられる。



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