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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    二 越前真宗三門徒派と高田派・仏光寺派
      真宗仏光寺派
 仏光寺は空性房了源が正中元年(一三二四)山科に興正寺を建てたのに始まり、元徳二年(一三三〇)京都渋谷に移り仏光寺と改めた。名帳・絵系図を用いた独創的な布教によって繁栄し、高田系の一分派として成長した。越前に見られる光明本尊は仏光寺派の影響と考えられるし、三門徒の本寺、大町専修寺も仏光寺を本所としていた形跡があり、越前と関係が深い。しかし、「越前国寺庵」に記載される仏光寺派寺院は一三か寺にすぎず、近世期の越前では小教団であった。
 これら仏光寺派寺院の寺歴をみると、半数以上が三門徒派と高田派からの分寺や改派した古寺で占められる。片屋の光照寺・奥野々の永元寺は鯖江誠照寺系で、府中の光善寺、横根の誠願寺は横越証誠寺系、南江守の仏照寺は中野専照寺からの改派であろう。寛永十二年と寛文三年の高田派伊勢・越前両専修寺の本寺争いで、再度にわたって越前側が敗訴すると、越前専修寺の末寺門徒は、東本願寺派や浄土宗のほか、仏光寺派へも改派改宗した。越前専修寺を支える大坊四寺の一寺であった大野専西寺は西応寺と改号して仏光寺派となった。また、丹生郡畠中にあった法性寺(専修寺)門徒も大部分仏光寺派に帰したため、寛文六年本山仏光寺は文栄を派遣して武周に西雲寺を創建して越前国内の仏光寺派寺院の触頭とした。当寺は正徳四年院家に昇進し御坊地となった。



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