横越証誠寺開祖道性の次男如覚が開祖とされ、中野専照寺・横越証誠寺とともに秘事法門を導入して三門徒教団と呼ばれた。初めは真照寺と称したが、永享十一年頃以降、誠照寺と改称し、文正元年(一四六六)四足門の勅許を得た。天正三年、北庄城主となった柴田勝家の厚い保護を得て寺門は繁栄したが、同十一年の羽柴秀吉の北庄攻めの途中に寺を焼かれ、同十七年再興されたが、すでに末寺門徒の多くは離散、末坊の離反や河俣常楽寺との本末争いで宗勢は衰微した。