越前に最初に教線を延ばした原始真宗教団は高田系(専修寺派)であった。『三河念仏相承日記』の「三河より高田へまいるひとひとの事」の中に「佐塚ノ専性 越前オホノ専光寺」の名が見え、三河に進出した東国の親鸞教団が、美濃から越前穴馬谷を経て大野盆地に布教の拠点を得たことが知られる。そして、大野から足羽川に沿って進出した円善は和田(福井市)に本覚寺を開創し、この開拓された路線によって越前に入ったのが高田顕智の門弟、如道(如導とも)で、足羽郡大町に専修寺を開いた。中野専照寺蔵の「八高僧図」に「親鸞―真仏―専海―円善―如導」と次第するように、彼は独自の教団を志向して早くから越前で布教に従事した人物の一人であった。
応長元年(一三一一)五月、本願寺三代覚如は、子の存覚を伴って大町に下向し、二十数日滞留して「教行信証」を伝授し、如道を覚如の門人としたが、覚如の帰洛後、如道は秘事法門という新儀を強く主張したとされる(「反故裏書」)。如道の大町専修寺は後に本願寺に帰入するが、その血脈は専照寺に伝わり、浄一の時、足羽郡中野村に専照寺を開創した。また、如道の弟子道性は横越証誠寺の祖となり、その弟子如覚は鯖江誠照寺の祖となった。そして、如道の秘事法門は、これら三門徒派と呼ばれる諸流に継承されて、本願寺派から長く擯斥を受けることとなった。このため本願寺教団とは、その後はげしく対立し、朝倉氏とともに一向一揆に対抗した。 |