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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    一 本願寺の分立と越前の諸末寺
      脇門跡興正寺の末寺
 現在は京都市下京区堀川通に寺基を定めている興正寺は、近世までは西本願寺末寺院であったが、明治九年(一八七六)独立して真宗興正寺派本山となった。当寺は、文明十四年仏光寺経豪が多数の門徒を率いて本願寺蓮如に帰依し、名を蓮教と改めて山城山科に一寺を建立、仏光寺の旧号興正寺を名乗ったことに始まる。蓮教の子蓮秀の時、一家衆に列し、永禄十年本願寺顕如の次男顕尊が入寺して、同十二年に脇門跡になると、本願寺に次ぐ重要な地位を占めた。
 延享三年(一七四六)の「祖門旧事記」(『本願寺史』)によると、越前では足羽郡と大野郡を中心に三七か寺の興正寺末寺が記載されるが、これらの末寺は元大町専修寺の末寺門弟であった。大町専修寺は、三門徒派の祖ともいわれる如道を開基とする。如道の死後、その法嗣は秘事法門を唱えて三門徒派に分立し、専修寺住持も還俗し大町助四郎となるなど(「反故裏書」)、大町専修寺は衰微した。その後本願寺蓮如の時に、専修寺は石田西光寺永存の三男蓮慶(蓮如の甥)が専修寺を継いで再興され本願寺一家衆となった。
 天正三年八月、本願寺領国越前の再平定を目指した織田信長の侵攻に対抗して、本願寺坊主門徒は木ノ芽峠に鉢伏城を築いて迎撃したが、大町専修寺賢会はこの地で討死した。これにより本願寺は、専修寺一門がすでに断絶したものと考え、その門徒を興正寺に与えた。ところが、加賀諸江に逃れ越中五箇山に潜んでいた専修寺賢会の子唯賢など遺族は、天正七年越前大野郡中野村に帰住して専修寺相続権を主張した。これに驚いた本願寺顕如は、唯賢に勝授寺の寺号を与え吉崎御坊の坊跡を継がせた。勝授寺は、同十七年三国湊に移るが、本願寺准如も唯賢に准賢の法名を与えて別格寺として扱い、さらに元和八年(一六二二)、本願寺は勝授寺に永代院家の寺格を与えて専修寺の由緒と賢会の功績に報いた。
 大町専修寺門徒は、近世に入ると興正寺門徒として西本願寺から寺号を与えられて寺院化した。これらの末寺分布をみると、足羽・吉田両郡と大野郡の二地域に分かれる。前者は専修寺の旧地足羽郡大町を中心とする分布であり、後者は、天正三年四月八日付の大野洪泉寺に宛てた富田盛勝宛行状(洞雲寺文書 資7)に「専修寺殿御館為替之地」とあることから、本願寺の領国化した越前において専修寺が大野郡に居館を置いていたからとみられる。 
写真169 富田盛勝宛行状

写真169 富田盛勝宛行状

 脇門跡という西本願寺末寺として最高で唯一の寺格を誇る興正寺は、その由緒のゆえに絶えず本山と対立して別立運動を起した。その最大のものは承応・明暦期(一六五二〜五八)の西本願寺による江戸公訴で、いったん興正寺が処断されて両者間で和融落着したが、その後も興正寺は、再三本山寺法の違犯を重ねたため、寛政三年(一七九一)西本願寺は再び江戸公訴に及んだ。このような興正寺と本山との確執のなかにあって、本山への直参化への機をうかがっていた大野郡の誓念寺・光明寺・唯教寺・願了寺・善勝寺・正善寺など興正寺諸末寺は、連署して直参化を願い出て西本願寺からは許容されるが、幕府はこれを認めなかった(大野市光明寺文書)。この公訴は二〇年間に及んで文化八年(一八一一)ようやく裁断が下されたが、興正寺の独立と末寺の西本願寺直参化も結局は明治初年まで実現しなかった。
 



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