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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    一 本願寺の分立と越前の諸末寺
      末寺門徒の分裂
 中世以来、越前のみならず北陸一帯に多くの末寺門徒を擁して勢力を拡充したのは超勝寺と本覚寺であった。本覚寺の開基については諸説があるが、親鸞―真仏―専海―円善と法脈を継いだ三河門徒系の信性を祖とする説が有力で、足羽郡和田庄に寺基を定めたのは十四世紀頃と推定され、以後和田本覚寺と呼ばれた。
 当初は高田派に属したが、応長元年(一三一一)本願寺三代覚如の教化を受けて本願寺派になったという。信性の死後、門末は分裂、応永年間(一三九四〜一四二八)本覚寺から分かれた門徒が、本願寺六代巧如の弟頓円を迎えて藤島の地に一寺を建立して超勝寺が成立した。その後、本覚寺は蓮如の吉崎退去後、「吉崎殿」と称され、吉崎御坊の留守職を預かり、永正三年(一五〇六)の一向一揆の後、加賀に逃れ、超勝寺とともに享禄・天文の大一揆を起した。この頃の「本覚寺末寺帳」(本願寺文書)には、「加州分」として木越光徳寺・宇坂本向寺・スナコタ徳勝寺・河尻西光寺など一五か寺、「越中之分」として中村願称寺・水島願満寺など一二か寺が記されている。永禄十一年(一五六八)朝倉氏と本願寺との和睦が成立すると、超勝寺・本覚寺等、加賀に浪々していた寺院諸坊主は越前に還住した。
 本願寺の東西分派によって、越前の諸末寺のうちの大坊も東西両派に分立した。吉田郡藤島村の超勝寺は東西の両寺に分立し、本覚寺は、加賀小松の通寺(掛所)が独立して東派本覚寺に、越前の本坊は西派に属した。大野郡の最勝寺・南専寺も東西に分立した。一方、照護寺・但馬興宗寺・橋立真宗寺・荒川興行寺・石田西光寺など本願寺を支えてきた有力末寺は、おおむね西派に帰入した。加賀の末寺の大部分が東派に帰属したのとは対照的であった。
 超勝寺・本覚寺は、天正十九年においても、ともに多数の末寺道場を有する大坊としての風格を温存していた(表127)。これら両寺の末寺道場は、本願寺の東西分派によってどのように変容したのであろうか。寺名を有する末寺のうち、超勝寺方では、野津俣の長勝寺が西本願寺直参となり、久末の照厳寺は東派に帰参した。本覚寺方では、東派へ帰参した川尻の西光寺を除いて、砂子田の徳勝寺(現了勝寺)、宇坂の本向寺、北庄の浄善寺、河端の蓮光寺、小黒の西光寺は、いずれも西本願寺直参となった。次に、法名のみの道場坊主については、各寺院記録から判明し得るものだけをあげると、超勝寺方では、二人は超勝寺末として残り、一人は東派へ移った。本覚寺方では、西本願寺直参になった者三人、本覚寺末寺としてとどまった者五人、東派へ帰参した者七人を数えた。このように中世の本願寺諸末寺は、東西分派によって本末の系流を変え、かつて超勝寺や本覚寺に従っていた照厳寺や本向寺も直参化すると同時に、それぞれの布教基盤を確立して新しい大坊として成長していったのである。

表127 天正19年(1591)の超勝寺と本覚寺の末寺数

表127  天正19年(1591)の超勝寺と本覚寺の末寺数
      注1 寺院は寺名のあるものである.
      注2 道場は寺名がなく法名・俗名のみのものである・
      注3 天正19年末の「末寺帳」(本願寺文書)により作成.




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