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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    一 本願寺の分立と越前の諸末寺
      東西両御坊の成立
 天正十三年閏八月、丹羽氏に代って北庄の城主になった堀秀政は、柴田勝家とは反対に本願寺と深く好を通じ、領内の一向宗(真宗)門徒に保護を加えた。「福井別院記」(「大谷本願寺通紀」)によれば、秀政は本願寺顕如に北庄柳町に「方百間」の寺地を寄進し、秀政の子秀治の時代に堂宇が造営されたという。これが現在の浄土真宗本派福井別院(柳町御坊・西御坊・西別院)の起源となる。「歴代宗主伝」(同前)の「准如」の項によれば、顕如は幼少の准如を越前に配して柳町御坊に本行寺の寺号を与え、越前・加賀・能登三州の末寺門下を統率させようとしたという。
写真168 西御堂寺町(福居城下絵図)

写真168 西御堂寺町(福居城下絵図)

 一方、東御坊(真宗大谷派福井別院・東別院)の来由はどうであろうか。文明七年(一四七五)八月八日、本願寺蓮如が足羽郡浅水出身の下間安芸法眼蓮崇に下付した「親鸞上人真影」(石川県富来恵光寺蔵)、ならびに絵伝(「大谷本願寺親鸞聖人之伝絵」京都常楽台蔵)四幅の裏書に「越前之国葦(足)羽郡北之庄浜、願主蓮崇」とあり、蓮崇が北庄浜町の地に営んだ僧坊が後に北庄塩町に再建された北庄総坊の前身と考えられる。北庄総坊は北庄九人衆の道場坊主によって運営された坊舎で、一般に九か寺総坊とも呼ばれた。文禄二年(一五九三)九月、本願寺の裏方へ隠居した教如は、その後も北陸で布教を続け、同五年六月八日、教如が「九ケ寺総坊」に下付した親鸞聖人真影の裏書(「御坊由来記」福井市願念寺文書)には、一三人に増加した道場坊主の名が記載されている。
 この頃、准如方では本覚寺・照護寺・真宗寺・本向寺など越前の大坊が、先に述べた御堂本行寺を中心に教団を形成しつつあり、これに対抗して教如方は越前における布教の拠点として、この北庄総坊を教如に献じさせようとしたが、九か寺側はこれを強く拒否した。しかし、慶長六年、結城秀康が北庄に入部すると、結城引越の本瑞寺にこの北庄総坊を合わせて城下常盤町に寺地二九一二坪を寄進し堂宇を建立させ、翌七年にこれを「東之御坊本瑞寺」と称した。ここに東派の末寺総触頭としての東御堂(東御坊)が成立する。徳川家康が教如方を起立した時期と一致することに注目すべきである。



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