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 第五章 宗教と文化
   第二節 越前の真宗
    一 本願寺の分立と越前の諸末寺
      東西本願寺の成立
 織田信長による全国統一事業の障害となったのは、石山本願寺の存在であった。天正三年(一五七五)八月の越前一向一揆の平定は加賀の本願寺領国支配にとって大きな打撃となったが、大坂石山に法城を建てた本願寺法主顕如は、いまだ全国に多くの門徒を有して隠然たる勢力を誇っていた。当時、中国地方へ派兵中であった信長の当面する課題は、石山本願寺を軍事的に屈服させることであったが、それが困難であったので、朝廷を仲介として和平交渉を進めた。一方、顕如も信長に徹底抗戦することにより法灯が滅亡することの不利を悟って講和に応じた結果、天正八年閏三月五日勅命による和議が成り、顕如は大坂を出て紀伊鷺森に退去した。しかし、顕如の長子教如は、諸方の門徒や反信長勢力に援助されて大坂にとどまり、再挙を図った。このように父顕如の命に従わない教如は、ついに父子の関係を義絶されて、弟の准如が本願寺の嗣と定められた。これが後の東西本願寺の分立に発展する端緒となるのである。
 天正二十年十一月、顕如の死後、豊臣秀吉は教如に命じて本願寺を継がせたが、生母如春尼はこれに反対して准如を法嗣に定めようとした。秀吉はその意を入れて証状を下し、准如を本願寺御影堂留守職に就けた。教如は自ら退いて門主の座を譲り、その裏方に居を移した。その後、徳川家康は、慶長七年(一六〇二)教如に京都七条烏丸の方四町の地を与え本願寺と称せしめた。これより本願寺は東西に分立することになり、以後、准如方を表本願寺、教如方を裏本願寺、また京都における寺基の位置により、前者を西本願寺、後者を東本願寺と称した(現在は前者を本派本願寺、後者を大谷派本願寺と称する。本節では西派・東派とする)。中世以来、一向一揆の精神的な聖域であった本願寺を二分させることで、その勢力を対立分散させるという徳川家康の巧妙な政策であった。



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