八幡宮と小浜町人との関係はさらに深いものがあった。寛永十九年の大飢饉のさいに、小浜町人は蔵米の貸付である「おり米」代金の納入期限延期と米価引下げを求めて八幡宮に集まっている。また貞享三年に疫癘が発生したさいには祈 のため八幡宮で能が二日上演され伊勢踊が催されている(『拾椎雑話』)。このほか十七世紀末から十八世紀中頃にかけて、さかんに歌舞伎や勧進操り・勧進能・勧進相撲などが興行されていたことが示すように、八幡宮は小浜町人の信仰や娯楽の中心であった(同前)。
祭礼は正月十三日の市祭、六月十四日・十五日の祇園会祭礼、六月二十九日の水無月神事、八月十四日・十五日の放生会祭礼であったが、このうち最も賑わったのは祇園会祭礼と放生会祭礼であった。祇園会祭礼は、以前魚市場に作り山を飾り諸人が見物していたが一時中絶し、酒井氏入部後の寛永十五年頃に練物が認められたといい、以後祇園会には小浜の町々から数多くの練子が出た(『拾椎雑話』)。『拾椎雑話』は、寛文十一年の練子二七番(山車六台)と延宝七年の練子三〇番(山車八台)をそれらを出す町とあわせ記しているが、小浜が都市として発展をみせるこの頃までには町惣中によって維持される祇園会祭礼のおおまかな形式は固まっていたと推測されている。
小浜では古くから祇園会を第一としていたので、かつては放生会の日も小浜の人々は家業を勤め、何のもてなしも行わなかったが、寛保三年(一七四三)八月の小浜八幡の正遷宮を機に惣町中の申合せにより簾を下ろして家業を休み、以後放生会の祭礼が盛んになったという。十四日に行われていた夜相撲は昼に大々的に行われるようになり、翌十五日には八幡境内の能舞台で倉座により神事能が上演された(『拾椎雑話』)。
放生会祭礼のさいには例年小浜藩から江戸升で二石二斗五升の供米が奉納され(八幡神社文書)、近世を通じてその額は保証されていた。忠直は寛文十一年七月同社に禁制を発すると同時に、「先々例の如く」供米を毎年請け取るべしとしており、供米は藩成立の当初から行われていたと推測される。 |