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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    四 越前・若狭の寺社
      気比社
 同社は古代以来越前一の宮・北陸道総鎮守として朝廷をはじめ諸人の尊崇を受け、中世には敦賀郡内を中心に広大な社領を持ち、中世以来京都粟田口青蓮院が社務職をもっていた。永禄十三年(一五七〇)三月の織田信長による朝倉氏攻撃のさいに、気比社は兵火にかかり社殿を焼失するなど一時衰微した(「気比宮社記」)。慶長八年正月、結城秀康は気比社の再建を命じて同年社領一〇〇石を寄進し、同十五年には気比社修造のための勧進も行われた。寛永十一年に青蓮院尊純法親王は小浜に入国した酒井忠勝に気比社の保護を依頼し、忠勝はその旨を了承している(気比神宮文書)。天和二年(一六八二)に成立した「遠目鏡」によれば同社は末社二〇社、社僧神通院のほか石塚家・川端家など社人一四人を数えた。
 気比社の祭礼でとくに大規模で有名なものは、仲哀天皇と神功皇后を大宝二年(七〇二)に祭神として合祀したことにちなみ、例年八月三日から一四日間行われる気比社例祭(敦賀祭礼)である。三日の天神祭礼には敦賀の各町中から練物(小山車)が出され町中を練り歩いたがその数は五〇余にものぼったといわれる。四日には「山」といわれる大山車を曳いたが、それは敦賀町内の一二町を西番・東番に分けて、両番が隔年に大山車を曳くものであった。この日の大山車巡行は「山六ツ町ヲ引、但シ山壱ツヲ五百人程宛ニ而引」という勇壮なものであった。この祭礼には近国からも多くの参詣・見物人を集め賑わったという(「遠目鏡」)。慶長十三年に松平忠直はこの祭礼を見物し(本勝寺文書)、寛永十九年酒井忠勝が入国するさいには、敦賀を経由し気比礼の祭礼を見物してから小浜に入っている。三日・四日の祭礼のため本勝寺には町人足によって棧敷が掛けられ、藩主や奉行はここで祭礼を見物した。天和三年には、練物や山車数や山車拍子などは従来のとおりとするものの、作り花などを装飾する金銀箔や今織緞子の使用禁止、かき棚・地車・山車の大きさ・高さの制限、山車を曳く人数の制限などが町年寄に命じられている(「寛文雑記」)。敦賀町人の富と力によって運営されていたこの祭礼も、祭礼にともなう奢侈を制限・禁止する意味から他の祭礼と同じように規制を受けたのであり、また十八世紀初頭からの敦賀町の経済的衰退も祭礼の規模に影響を与えた。



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