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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    四 越前・若狭の寺社
      劒社
 素戔鳴尊を祭神とする越前国二の宮劒社は丹生郡のほぼ中心に位置し、近世では同郡内の五三か村を「氏子村」とし地域民衆の信仰を集めていた(「大野領寺社記并雑記」)。劒社は別当寺として織田寺をともない、古義真言宗東寺観智院末の神前院を筆頭とする寺家(社僧)と、京都吉田家から神道裁許状を得ている上坂家を筆頭とする社家(神職)によって維持されていた(『越前国名蹟考』「大野領寺社記并雑記」)。寺家数は初期では六院を数え(「越前国寺庵」「大野領寺社記并雑記」)、時代が下るに従って減少傾向を示したのに対し、上坂家を社人惣代(大祝・老祝)とし権祝・執当・政所以下の社人の総数二五人は近世を通じ変化しなかった。一般に寺家と社家は様々な対抗関係をはらんでいたとみられるが、寛延元年(一七四八)には神前院等寺家と大祝以下の社家は、式日の劒社への織田寺寺僧の出仕について近隣の四か寺と宮本の氏子等の扱いにより和談証文を取り交わして、出仕日と出仕規式を確認している(劒神社文書 資5)。
 劒社の神事・祭礼のなかで最も大きなものは例年九月九日・十日に行われる大祭であった。大祭の前には氏子惣代から氏子村五三か村に触が廻達され、御神灯や山鉾を先例のとおり寄進すべきことを伝え、社参のさいの喧嘩口論や神輿への無礼を戒めている(上坂一夫家文書)。大祭の行列は前駆二五人を先頭とし、餝神輿・神人・大鉾・神矛・幡一〇本・蒙古木首・老祝騎馬・神輿と神人二五人・権祝が進み、続いて五三か村の氏人が練り歩くものであった(『越前国名蹟考』)。また、翌十日には流鏑馬神事が行われた。



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