中世以来の伝統をもつ遊行上人廻国は、近世においても幕府・藩の保護のもとで継続された。元禄二年三月の越前廻国のさいには、遊行上人方からあらかじめ加賀金沢から越前へ入るとの先触があり、福井藩領分に入ると郡奉行・郡代・町奉行等がその応対に当たった(「御用諸式目 」松平文庫 資3)。この時の廻国では、長崎称念寺に入り一〇日から二〇日間程度逗留し、次に福井乗久寺でもほぼ同期間逗留し狛杢允等藩家老の見舞を受け、その後今立郡岩本成願寺に移るという経路をとり、時には大野恵光寺や府中称名寺にも廻っている(『越藩史略』、斎藤寿々子家文書)。また逗留地には参詣人が群集するので、藩から三人が警護についた(「御用諸式目」松平文庫 資3)。
次に享保十四年四月の敦賀における廻国の様子を「敦賀郷方覚書」によってみてみよう。同月二十五日に府中を発った一行は、北陸道木ノ芽峠を通って敦賀郡に入り二祖他阿真教の旧跡西方寺に参着するが、小浜藩は府中から敦賀までの伝馬五〇匹を敦賀郡新保・葉原両村の町馬借から調達し、人足五〇人は敦賀郡代官を通じ郷方の村々に割り付けられて用意された。翌二十六日には小浜藩主から定例の進物として黒米(玄米)二〇俵・炭一〇俵・薪一〇〇束が贈られ、西方寺内に建てられた仮番所には番足軽が六人派遣されて警護に当たった。五月八日には気比社での「遊行砂持ち」の神事が行われたが、あらかじめ同月二日に郡代官所より二五俵分の砂役切手が常宮浦庄屋に渡され、町人足が砂二五俵を取りに行った。また、遊行砂持ちのさいの行列と翌九日の常宮社への参詣には一八人の人足がつけられた。常宮参詣が済んで翌十日には使僧が返礼に訪れ、十一日には井川の新善光寺に参着し十八日まで逗留した。この間、敦賀町中と郷方の一部は自身番をおこなっている。十八日に新善光寺を発った遊行上人は、藩によって用意された一四〇人もの人足により越前・近江両国の国境近江柳ケ瀬まで送られた。柳ケ瀬を経由したのち、伊香郡木之本の浄信寺で一宿し、犬上郡の高宮寺に至るという経路をとった。 |