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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    四 越前・若狭の寺社
      信仰活動の諸相
 近世中期以降、伊勢参りや善光寺参り、あるいは西国三十三所巡礼などの寺社参詣が全国的に盛行した(第三章第二節)。越前・若狭でも地域的な霊場・巡礼圏が中期頃から整えられ、地域民衆の信仰を集めていた。越前の場合、その最も古く大きなものは「越前国地西国」と称されるもので、延宝年間頃に成立し敦賀郡を除く越前全域を巡礼圏とした広域的なものであった(『越前国名蹟考』)。越前国地西国は特色として若干の曹洞宗寺院を含むほか、白山御前峰の本地仏十一面観音の霊場や泰澄開創伝承をもつ真言・天台宗寺院を多く含み、越前で従来から盛んであった白山信仰を基盤とした巡礼圏を形成していた。その後、安永年間(一七七二〜八一)に今立地西国、寛政年間(一七八九〜一八〇一)に池田地西国、成立年は不明ながら後期には府中地西国・大野地西国が成立し、観音・薬師・地蔵・不動信仰など多様な信仰を含む巡礼が行われていた。また、文化十二年(一八一五)に著された『越前国名蹟考』は、福井地西国として三十三所観音巡礼を含む六十六所観音巡礼と二十八所地蔵巡りの巡礼地を記している。教義のうえで阿弥陀仏一仏への帰依と来世の浄土への往生を説き、現世利益的な要素が薄い真宗信仰が盛んであった越前でも、中期以降は現世利益的な諸信仰もかなり広がりをみせていたことがうかがわれる。
 中世以来、密教系の信仰が盛んであった若狭では、越前以上に巡礼など現世利益的で多様な神仏を礼拝する信仰活動が盛んであったようである。元禄六年(一六九三)成立といわれる「若狭郡県志」は、若狭三郡に展開する「若狭地西国」と称されるべき三三か所の巡礼地を西国巡礼の各札所とそれぞれ対応させて記しているが、十五世紀中頃原型ができたといわれる若狭地西国巡礼地の諸観音と西国巡礼地の本尊は番付どおりにほぼ一致している。
 『拾椎雑話』は「西国巡礼に出る事、隣遊ひに異ならす」と記し、中期以降の西国巡礼の盛行を伝えている。『拾椎雑話』より一〇年遅れて明和四年(一七六七)に著された『稚狭考』は、「三月上旬、伊勢両宮を拝せんとて小浜より群行おひたたし」と記し、お蔭参りの流行を伝えている。また『拾椎雑話』はかつて常高寺下り途の薬師と今道町寅薬師が参詣人を集めたが、勢村七面明神・妙興寺仁王・本境寺祖師像・常然寺元三大師などに信仰の対象が移り、その後讃岐金毘羅権現や遠江秋葉山への参詣が盛んになったとしている。中期以降、小浜付近でそれらの信者により行者講・代参講などの講が活発に運営されていたことがそれを示している。
 若狭には古くから妙楽寺観音へ参詣する人が多く、踊や見せ物の類や物売りなども出る賑わいをみせ、湯岡から尾崎にかけての南川の河原も遊山の人々の憩う場になるほどであったが、宝永の頃から金屋万徳寺が遊山の場になったという(『拾椎雑話』)。また、現在も小浜で行われている地蔵盆は、正徳頃に小浜片原町の石地蔵を瘧治癒の「願ほどき」(礼参り)として毎年七月二十三日に参詣したことから始まり、以後小浜町の各所で石仏が祀られるようになったという(同前)。このように寺檀制をこえた様々な信仰活動が展開したのも近世社会の特色であった。



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