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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    四 越前・若狭の寺社
      遠敷郡の寺院
次に小浜町を含めた遠敷郡の寺庵分布について概観する。曹洞宗では近世に禅道場として多くの修業僧を集めたといわれる小浜伏原発心寺が中心となったようである。発心寺の末寺・末庵は郡北部の北川下流域に、桂木興禅寺の末寺・末庵は郡南部の名田庄旧域に多く、「由緒記」によればそれぞれ一〇か寺ほどの末寺があった。また他地域と比較して臨済宗も展開しており、南禅寺派の小浜高成寺には郡北部西津以西の海岸部を中心に一八の末寺・末庵があり、妙心寺派の小浜常高寺も郡北部を中心に九の末寺・末庵があった。小浜町域は同郡の在方と比べて法華宗・真宗寺院の割合が高く、とくに文明八年(一四七六)に蓮如が逗留したと伝えられ、近世でも真宗西派の触頭役を勤めた妙光寺や、法華宗京都本国寺末の長源寺、同宗京都本隆寺末の本境寺、同宗京都妙顕寺末の妙興寺(日像四か聖跡の一つ)などの諸寺が勢力を有した。例えば長源寺の大檀越として木下和泉(『稚狭考』)、本境寺の大檀越としては組屋六郎左衛門をあげることができる(「本境寺墓碑銘」)。中世以来の小浜の都市的発展を背景に、これらの宗派の寺院が木下・組屋という初期豪商をはじめ、多くの檀信徒を獲得していったことがうかがえる。
 これに対して、天台宗・真言宗の寺院は数は少なかったが、小浜藩の保護のもと藩政の一端に深くかかわっていた。例えば真言宗羽賀寺は、小浜藩の依頼により新藩主忠勝の入国予定日や小浜城天守作事始の日の吉凶を占ったり、小浜城天守に東照権現の札を祀るさいに忠勝の命を受け登城するなど(羽賀寺文書 資9)、初期から藩と密接なつながりをもっていた。また、真言宗明通寺・羽賀寺・妙楽寺・多田寺・谷田寺の五か寺と天台宗神宮寺は京極氏の代から臨済宗高成寺とともに大般若経転読行事を執行していた(明通寺文書)。京極氏以降の歴代藩主によって維持され、正月に真言宗五か寺、五月に神宮寺、九月に高成寺が執り行うのを通例とした大般若経転読は、藩の公的行事としての性格を強くもっていたとみられる。延宝四年には京極氏以降の通例を主張する真言宗五か寺と、天文十一年(一五四二)以後神宮寺のみ転読を認められたと主張する神宮寺のあいだで争論が起っている(同前)。<表126 若狭三郡の寺院分布>
 



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