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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
     三 宗門改と寺檀制度
      寺檀制度
 一般に近世の家は祖先祭祀・供養の単位としての機能をもち、寺と寺檀関係をとり結んでいたと考えられる。先にみた穴馬門徒はやや特殊な例で、初期から十七世紀後半にかけてはほとんどの家が檀那寺をもつにいたったと考えられる。こうして成立した寺檀関係は、寛文期の宗門改の制度化によって寺檀制度へと転化した。越前・若狭の各寺院において過去帳が整えられ始めるのも、大体はこの頃からである。
 近世では一つの家に対し一つの寺が葬儀・仏事を行うのが寺と檀家の基本的なありかたであったが(一家一寺制)、とくに初期の段階では一家族の中でも檀那寺を異にする一家複数寺制(半檀家制)もみられた。寛永期の敦賀郡杉津浦の宗門人別書上には、一家族内に浄土宗西福寺下海蔵院檀那と法華宗本妙寺善行坊檀那が併存している例がみられ、このことをよく示している(本蓮寺文書)。また、大野郡の一部(現勝山市域の一部)では後期にも一家複数寺制が残っていた(松屋文書)。
写真164 杉津浦の宗門人別書上

写真164 杉津浦の宗門人別書上

 ところが、近世において例えば真宗の信徒個人を指す言葉の「門徒」の用例が少なくなるのに対して、家を指す「檀家」などの言葉が急増することからもうかがわれるように、民衆の「家」の成立を背景として祖先祭祀の仏式化が進み、信仰は「家」の問題としての性格を強めていった。例えば女性は嫁入りなどによって夫と同じ檀那寺の檀那となった。また男性が婿養子に入ったさいにも、願いによりその一代に限り元の家の檀那寺への参拝は許された例もあるものの、その場合は近世の「家」の構成要素たる「家産(高)」「家名(名跡)」「居宅」を相続することができなかった(正覚寺文書)。また、隠居などで別居を建て家産としての田畑を譲るさいの譲状の文言に、「宗旨離れ」として高を相渡すとあるのは(平井源一家文書)、寺檀制度が「家産」観念と結び付いていることを示していよう。寺檀制度は、葬祭を軸として近世民衆の「家」を維持するものとして機能していた。
 近世社会では特定の寺檀関係の破棄すなわち「離檀」(改宗、寺替)は幕府・諸藩によって原則として禁止され(滝谷寺文書)、とくに当主と嫡子は檀那寺の納得がなければ離檀できなかった(正覚寺文書、成願寺文書など)。これは離檀が宗門改の実施上不都合であったばかりでなく、「家」代々の祖先祭祀を行う檀那寺を変更することが、「家」の連続性を否定する危険性をはらむものであったからとも考えられる。
 寺檀制度が確立したことによって民衆はいずれかの寺院の檀那とされ、個々の寺と民衆の関係は強化されたが、それは寺院にとってはその経済的基盤の確立を意味するものとなった。寛文八年に福井藩では、在方に対して「百生(姓)共宗旨之寺々へ分ニ過たる勧進不可入、身上ニ応シ施物可遣」(上田重兵衛家文書 資7)と指示している。寺檀制度が寺と檀家の経済的な取持関係を強めたことを受けて、藩側が農政・民政との調整のためこのような指示を下したものと考えられる。宗門改と寺檀制度は幕府・藩の民衆支配には不可欠の制度であったが、農政・民政との矛盾も内包していた。



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