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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
     三 宗門改と寺檀制度
      宗門改と穴馬門徒
 寛文年間に諸藩で宗門改が本格的に実施されるのにともない、民衆はいずれかの寺から宗判を受けなければならなくなった。真宗寺院と百姓を中心とする門徒との法縁関係は、経済的な取持ち関係と一体のものとして寺院成立以前(道場の段階)から成立しており(正願寺文書 資6など)、越前の寺院の成立が近世初期にほぼ完了することからみると、寛文期頃までにはかなり多くの人々が施物を施入する「旦那寺」をもつにいたったと考えられる。
 しかし、大野郡の穴馬地域の事情はやや異なっていた。ここで寛文期に起った穴馬門徒の帰属をめぐる一件をみてみよう。坂井郡の三国勝授寺は天正三年の織田信長越前侵攻のさいに、鉢伏山にたてこもり討死した専修寺賢会の子孫という由緒をもって、慶長六年から本願寺への大野郡門徒の取次権を認められていた(勝授寺文書)。勝授寺はそれを根拠として、寛文五年の福井藩宗門改のさいには穴馬地域の荷暮・半原・大谷・久沢村の四か村で真宗西派の中本寺である京都興正寺の宗判の代判を押したが、興正寺坊官と福井輪番教宗寺から四か村の代判を差し止められた。このことを勝授寺が訴えたが、この一件について郡奉行水谷長兵衛は「宗門之儀人々心入次第」とし、個人の宗旨と宗判を受ける寺については門徒の自由意志に任せるという原則を示した。ただ、大野郡内の真宗西派が興正寺の門下であることを重視し、勝授寺ではなく大野誓念寺が代判を押すべきと判断した。その結果、四か村のうち荷暮・半原村  は興正寺下の誓念寺が手次寺として代判を加えることとなった。しかし、大谷・久沢村は両村の門徒四〇名が従来どおり勝授寺から代判を受けたいと幕府へ訴えた結果、勝授寺が宗判を押すことになった。
 寛文五年七月に幕府が発した「諸宗寺院法度」(『御触書寛保集成』)は「檀越之輩何寺たるといえども其心に任すべし、僧侶方より相争うべからざる事」とし、寺檀関係は檀家側の自由意志に委ねるべきとしたが、寛文期の宗門改の本格化にともない、檀家の帰属をめぐって寺院間の争いが激しくなったことをうかがわせる。またこの一件に関連して、美濃国郡上郡の神路・大間見の二村も興正寺支配となったことで、勝授寺は大野郡の荷暮・半原と郡上郡の神路・大間見の四か村の取次権の復活を本願寺に訴えたが認められず、寛文九年に「預り門徒」を残らず興正寺に返付し、取次権を放棄することとなった(勝授寺文書)。
 この一件は、福井藩の宗門改の実施にともない門徒の取次権をめぐって問題が生じた例であるが、勝授寺が穴馬四か村において代判を押すことで、勝授寺と穴馬四か村の門徒の取次関係が寺檀関係に転化・固定化されることを興正寺が恐れたことにより起ったものとみることができる。南北朝期以降、穴馬には三河系の真宗の教線が伸張し、江戸時代には道場を中心とした独特の信仰が営まれていた。穴馬門徒は本山直参としての意識が強く、一般に手次寺は本山へ懇志を上納したり諸願いをするさいに取り次ぐなどの事務的な機能しかもたなかった。また経済力の低さなどの諸要因もあって、近世に入っても寺院は成立しなかった。穴馬の村々の道場主や毛坊主は、村落内の信仰生活全般をつかさどる存在ではあったが、身分上は百姓身分であるため宗判権を行使できる存在ではなかったのである。寛文期から本格化する宗門改が「寺請」を必要とした以上、穴馬門徒は本願寺の直参門徒とはいえ、大野誓念寺など主として大野郡内の本願寺末寺による代判を受けなければならなかった(縁借り制)。また、代判を行う寺に対しては檀家としての取持ちもある程度必要であったと考えられる。



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