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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
     三 宗門改と寺檀制度
      不受不施派の統制
 先に述べたように、寛文年間から延宝年間または藩成立期(前述の鯖江藩などの場合)に各藩において寺院台帳が整備され、藩領内の諸寺院が把握されたと考えられる。藩側の寺院台帳に記載された寺院は寺請の判形を加える権限のある寺、すなわち宗判権寺院として各藩の公的寺院と位置付けられるようになった反面、寺院台帳に記載されていない寺院は宗判権をもたない未公認の寺として扱われるか、または新寺として領主的規制(新寺停止)の対象になった(第五章第二節)。
 幕府は寛文五年十月から、信心為本の立場を貫き幕藩権力からの施物を拒否するなど、幕藩権力に従わない法華宗の一派である不受不施派の弾圧に乗りだしていった。万治三年に不受不施派の上総国富田村福田寺の僧が松岡藩主松平昌勝を頼って吉田郡松岡に来住しており(「御年表」松平文庫)、越前にも確実に不受不施派の教線が伸張していたとみられる。寛文九年四月には幕府は不受不施派の寺院の寺請を禁止し、さらに元禄四年四月には法華宗のうち悲田派(悲田不受不施派)も禁止されていく(『御触書寛保集成』)。福井藩では同年五月には町方の法華宗寺院の住持は町奉行、郡方の法華宗寺院は郡奉行のもとに集められて不受不施派・悲田派の寺院かどうか吟味されている(「御用諸式目  」松平文庫 資3)。
 元禄七年、福井藩領内の善行寺・正法寺・本寿寺の法華宗三か寺が、「国法」に対する不義により寺を破却され、正法寺・善行寺住持は欠落している(「家譜」)。これらの寺々の本寺(京都本能寺・妙満寺・立本寺)が、中世以来不受不施派とつながりが深い寺々であったことからみて、この措置は受不施派に転じなかった領内の不受不施派に対する禁圧と推測される。このように近世の諸寺は、諸藩にとっては寺請を行う主体として民衆支配機構の末端に位置付けられるべき存在となったこともあり、厳しい統制の対象となったのである。寺院統制策としては、前述の本末制・触頭制に加え、寺請を行う主体である「寺」を確定するため、新寺建立禁止などの措置も行われていった。



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