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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
     三 宗門改と寺檀制度
      越前・若狭の宗門改
 福井藩の場合、寛永七年に諸士・百姓・町人を対象にした「てうす門徒御穿鑿」が実施された。てうす(Deus)は神の意である。百姓に対しては庄屋と「十人組」の組頭を宗門改の責任者とする俗請形式による宗門改が実施されたこと、またとくに諸士とその陪臣に対しては「一人宛宗師(宗旨か)を改め判申付け」たことが知られ(「家譜」)、寺請をともなった宗門改としては全国でも最も早い例に属するものであった。
 小浜藩では寛永十一年十一月に酒井忠勝が小浜町・敦賀町に条々を発し、キリシタンの信仰を厳禁した。翌十二年九月七日には国元の年寄に対して、キリシタンでない証拠として村々で五人組を新たに結成させ、五人組からキリシタンでない旨の連判をとるという俗請形式とともに、領民に「頼み候寺」の「坊主ニ堅く手形を仕」せてキリシタンでないことを証明するという寺請形式の採用を指示している。そして、この二つの形式に基づく宗門改の実施を、小浜・敦賀の町奉行・目付や三方・遠敷・大飯郡の郡奉行・代官に命じた(「酒井忠勝書下」)。この前日に幕府はキリシタン禁制を再令していたこと、またこの時の宗門改の形式は京・大坂・堺など幕府領のそれに準じたものであったことなどからみて、当時老中として幕政の中枢に参画していた忠勝が領内にもキリシタン禁制の趣旨を徹底させようとしていたことがうかがえる。
 藩主の指示を受けて敦賀郡大比田浦では同十二年十一月に五人組を単位として宗門改が実施され、村の戸主全員が連判により請状を奉行・代官宛に提出している(中山正彌家文書 資8)。請状はキリシタンでないことを誓約しているだけでなく、徒党禁止や不審者への宿貸し禁止などの条項を含んだものである。宗門改のさいに、相互監視と連帯責任を特色とする五人組ごとに請状が提出されていることから、宗門改がその実施当初から民衆統制策としての色彩を色濃くもっていたことが知られる。また、この時の宗門改は住人一人一人を家族ごとに改めた宗門人別の書上の提出をともなっていた(刀根春次郎家文書 資8)。寛永二十年には、三方郡日向浦で長久寺檀家四〇家を家族ごとに改めた「吉利支丹改帳」が作成されている。同帳は後年のものとは異なり年齢の記載を欠くものの、小浜藩では幕府による帳形式への統一が指示されるかなり以前から帳形式を採用していたことがわかる(漆沢納家文書 資8)。
 宗門改は一般民衆だけでなく、諸士とその陪臣まで対象とされた。万治二年六月に幕府は諸藩に対して家中の宗門改を命じた。福井藩家老職を代々勤めた狛家では、同年九月に同家の与力と家来が下男下女を含む総数四三二人の一人一人の宗旨を改め、檀那寺の判形をとっていた(『越前国宗門人別御改帳』)。なお、同年から幕府は「旦那寺」を宗門改の責任者と明確に位置付けている(『御触書寛保集成』)。
 このように福井・小浜両藩では、寛永期から宗門改が実施されていた。幕府は寛文四年(一六六四)十一月、諸藩に宗門改役の設置、宗門改の毎年実施、転宗者登録制の実施などを命じており、越前・若狭の諸藩でも翌五年頃から宗門改を本格的に実施するようになった。
写真162 日向浦吉利支丹改帳

写真162 日向浦吉利支丹改帳

 幕府は貞享四年(一六八七)七月に、キリシタン本人だけでなくその親類・縁者・子孫までも改め監視するキリシタン類族改の制を成文化し(『御触書寛保集成』)、全国のキリシタン類族を幕府宗門改役が把握する体制を整えた。このとき幕府領の坂井郡御簾尾村に居住していた桶屋太右衛門は、父奧田無清(福井町医か)と妻の祖父(もと本多飛騨守の家臣)がかつてキリシタンとの疑いをかけられ、寛永の終わり頃江戸へ召喚され宗門改役の詮議を受けていたため、その妻とともにキリシタン類族として扱われた。キリシタン類族改のさいには両人は庄屋・長百姓、檀那寺滝谷寺による証文と自らの系譜・出自を記した口上書を代官に提出している(滝谷寺文書)。太右衛門が元禄二年(一六八九)五月病死したさいには、福井藩を通じて幕府宗門改方にその報告がなされており(「家譜」)、キリシタン類族とされた人々には常に監視の目が注がれていた。



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