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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
     三 宗門改と寺檀制度
      キリシタン禁制と宗門改
 『拾椎雑話』は、織豊期にフランシスコ会の宣教師フラテンが、海路小浜に入り大津を経て京都南蛮寺に着いたと伝える。また、天正九年(一五八一)にはイエズス会の宣教師ルイス=フロイス等が、巡察使ヴァリニャーノの命を受けて布教のため安土から近江長浜、府中を経て北庄を訪れ、柴田勝家から北庄での布教を許可され二二日間同所に滞在して布教した。その結果五〇人余が洗礼を受け、やがて小規模ながら教会も建てられたという。フロイス等は府中でも六、七日間布教したのち安土へ戻った(『日本史』第二部三二章、『イエズス会士日本通信』)。これらの所伝や記録は、当該期のキリシタン宣教師の活発な動きの一端を示している。
 ところが、織豊期に西国を中心にかなりの展開をみたキリスト教の信仰は、近世の支配思想と相容れないものであったため、慶長期(一五九六〜一六一五)から寛永期(一六二四〜四四)にかけて厳しく禁じられるようになった。幕府は貿易上の統制だけでなくキリシタン宣教師の潜入防止のため鎖国を断行し、さらに訴人密告の制度によってキリスト教信仰の根絶を図っていった。しかし、万治元年(一六五八)の幕府宗門改役井上政重による全国的なキリシタンの摘発では、福井で七、八人、丸岡で三人(うち侍二人)、若狭で一両人を取り締ったことが知られるように、キリシタン根絶は容易ではなかった(「契利斯督記」『続々群書類従』第十二)。幕令に従い若越諸藩においてもキリスト教の信仰は禁止され、諸藩の高札場ではキリシタン禁制の高札が立てられ、キリシタン訴人に賞金を与える政策がとられた。このように全民衆はキリシタンでないことが求められたが、民衆一人一人についてそのことを証明するための制度が宗門改の制度であった。



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