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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    二 本末制度と触頭制
      各宗の触頭
 越前曹洞宗の触頭(惣録・僧録)は永平寺末寺の福井孝顕寺であった。同寺は「曹洞宗越前一派惣録」(『国事叢記』)の寺院であり、触頭として永平寺末寺のほか総持寺末寺も支配した。孝顕寺は寛永十四年、大野郡内の洞雲寺・曹源寺・瑞祥寺・岫慶寺の寺地の諸役免許を、大野藩主松平直基に言上して許可を得るなど、本寺である永平寺に代わって教団を代表して諸藩との交渉に当たっていた(洞雲寺文書 資7)。
 曹洞宗における両本山制は、触頭と触下寺院との対立の根本的な要因にもなった。宝暦十三年(一七六三)には、孝顕寺の触下寺院であるが総持寺末寺に属した南条郡の宅良慈眼寺など六か寺が、永平寺への年始礼を勤めるよう命じられたことで訴訟が起り、その結果、孝顕寺住持大謙が本山永平寺の命令に従い引責退院したために、「国法禄役(国法触頭役)相立たず」という事態を生じかけたこともあった(『国事叢記』)。文化元年十月には「府内十二カ寺」を中心とする孝顕寺支配下の「国中惣寺院」が、孝顕寺での「諸事御録所表諸勤」が過重であることを訴え、寺僧の入院・交代や臨時諸願いなどのさいの取次料を引き上げるなどとする触の趣旨を「邪法」であるとして反発し、触に請印を加えない動きをみせた(「孝顕寺新触一件留」金剛院文書)。触頭制は本末制による支配ではなく藩領を単位とした支配であったために、触下寺院との対立を生じやすかったものと考えられる。
 浄土宗の触頭は福井石場立矢町の運正寺であった。慶長十二年閏四月に没した秀康は、結城家菩提寺の曹洞宗孝顕寺に葬送されたが、家康は秀康が徳川の一門であることから、徳川家の宗旨の浄土宗寺院に改葬すべきと命じた。福井藩は家康の意に従い京都知恩院から満誉上人を招請して同十二年浄土宗浄光院を建立し、後年秀康改葬が行われた(「家譜」)。延宝元年に浄光院は松平光長・光通を通じて、秀康菩提所であることをもって常紫衣地となるよう幕府に申請して同年十一月に許可された(「御用諸式目  」松平文庫 資3、『国事叢記』)。このように、浄土宗寺院は幕府・将軍家により厚遇され、諸藩もこの方針にならうことが多かった。なお、宝永六年十一月に同寺は、同年没した徳川綱吉御台所の法号浄光院を避けて運正寺と改称している。
 時宗では長崎称念寺が近世初頭から触頭を勤めていた。一般的に各宗とも本寺への後住願いなどのさいには各宗触頭の添状を必要としたが、今立郡の岩本成願寺は、寛永十八年から遊行三十六代上人となった如短以来、住持(後住)願いのさいにも称念寺の添状を必要としない別格の寺院であった。しかし、公儀御用筋または本山御用の折に称念寺より差し出された触状には、加判して称念寺の触頭的支配を受けなければならなかった(称念寺文書、成願寺文書)。
写真161 賦存証状

写真161 賦存証状

 越前の新義真言宗の触頭は三国の滝谷寺と性海寺の二か寺が相役で勤めた。触頭相役方式をとったのは、両寺が北方安楽寺・福井持宝院と合わせ「越前ノ四ケ所真言宗古跡」に数えられ(「越前国名勝志」)、元和年間以降もしばしば両寺が座論を起していたことからもうかがわれるように、ともに越前新義真言宗教団の中心的な寺院であったためである。両寺の国法触頭としての管轄は福井藩領内のみであったが、両寺が「田舎檀林」として教団内部での地位も高く、越前・加賀の二国を寺法触頭として管轄しており、加賀の新義真言宗寺院にも相役で寺法を触れ流していた(「触下寺院覚」滝谷寺文書、性海寺文書)。領域的支配を行う国法触頭と地域的支配を行う寺法触頭の性格・機能上の違いによって、このような管轄範囲の違いも生まれていた。
 真宗西派では、顕如の子理光院を住持として建立された福井御坊本行寺が触頭であり、真宗東派では、福井御坊本瑞寺が触頭であった(第五章第二節)。両寺とも元来東西本願寺の掛所としての性格をもつほか、国法触頭としての性格を併せもち、国法・寺法の両面から教団を統括する寺院としての機能を有していた。福井藩にとって、諸宗と同様に「王法(国法)の尊重」を積極的に掲げた東西本願寺の掛所を国法触頭として統制することは、真宗教団ひいては被支配身分である農民・町人を主体とする真宗門徒の統制にもつながるものであった。また、四か本山の中野専照寺・鯖江誠照寺・清水頭毫摂寺・横越証誠寺もそれぞれの末寺に対し触頭的支配を認められていた。
 諸宗の触頭寺院は、中世以来多数の末寺をもった地方教団内の有力寺院や藩主とともに入部した寺などであったが、寺領を寄進されたり藩主の菩提寺格として扱われるなどとくに保護され、藩と地方教団の接点に位置した。



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