越前曹洞宗の触頭(惣録・僧録)は永平寺末寺の福井孝顕寺であった。同寺は「曹洞宗越前一派惣録」(『国事叢記』)の寺院であり、触頭として永平寺末寺のほか総持寺末寺も支配した。孝顕寺は寛永十四年、大野郡内の洞雲寺・曹源寺・瑞祥寺・岫慶寺の寺地の諸役免許を、大野藩主松平直基に言上して許可を得るなど、本寺である永平寺に代わって教団を代表して諸藩との交渉に当たっていた(洞雲寺文書 資7)。
曹洞宗における両本山制は、触頭と触下寺院との対立の根本的な要因にもなった。宝暦十三年(一七六三)には、孝顕寺の触下寺院であるが総持寺末寺に属した南条郡の宅良慈眼寺など六か寺が、永平寺への年始礼を勤めるよう命じられたことで訴訟が起り、その結果、孝顕寺住持大謙が本山永平寺の命令に従い引責退院したために、「国法禄役(国法触頭役)相立たず」という事態を生じかけたこともあった(『国事叢記』)。文化元年十月には「府内十二カ寺」を中心とする孝顕寺支配下の「国中惣寺院」が、孝顕寺での「諸事御録所表諸勤」が過重であることを訴え、寺僧の入院・交代や臨時諸願いなどのさいの取次料を引き上げるなどとする触の趣旨を「邪法」であるとして反発し、触に請印を加えない動きをみせた(「孝顕寺新触一件留」金剛院文書)。触頭制は本末制による支配ではなく藩領を単位とした支配であったために、触下寺院との対立を生じやすかったものと考えられる。
浄土宗の触頭は福井石場立矢町の運正寺であった。慶長十二年閏四月に没した秀康は、結城家菩提寺の曹洞宗孝顕寺に葬送されたが、家康は秀康が徳川の一門であることから、徳川家の宗旨の浄土宗寺院に改葬すべきと命じた。福井藩は家康の意に従い京都知恩院から満誉上人を招請して同十二年浄土宗浄光院を建立し、後年秀康改葬が行われた(「家譜」)。延宝元年に浄光院は松平光長・光通を通じて、秀康菩提所であることをもって常紫衣地となるよう幕府に申請して同年十一月に許可された(「御用諸式目 」松平文庫 資3、『国事叢記』)。このように、浄土宗寺院は幕府・将軍家により厚遇され、諸藩もこの方針にならうことが多かった。なお、宝永六年十一月に同寺は、同年没した徳川綱吉御台所の法号浄光院を避けて運正寺と改称している。
時宗では長崎称念寺が近世初頭から触頭を勤めていた。一般的に各宗とも本寺への後住願いなどのさいには各宗触頭の添状を必要としたが、今立郡の岩本成願寺は、寛永十八年から遊行三十六代上人となった如短以来、住持(後住)願いのさいにも称念寺の添状を必要としない別格の寺院であった。しかし、公儀御用筋または本山御用の折に称念寺より差し出された触状には、加判して称念寺の触頭的支配を受けなければならなかった(称念寺文書、成願寺文書)。 |