目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    二 本末制度と触頭制
      触頭制度
 寛永十二年の寺社奉行の設置とほぼ同時に、幕府は各宗派ごとに江戸やその近郊の有力寺院から江戸触頭(関東触頭・関東僧録司)を定めた。江戸触頭は真宗西派は築地本願寺、真宗東派は浅草本願寺、曹洞宗は国府台総寧寺・富田大中寺・越生竜穏寺の関東三か寺(いずれも総持寺門派)、浄土宗は芝増上寺で、これらの寺々は幕府からの触を各宗の本寺・末寺に廻達したり、各宗派を代表して幕府との取次役としての役務などを負っていた。なお、曹洞宗関東触頭の大中寺は天和元年以降、越前(九二か寺)と若狭(三一六か寺)を支配下に置いている。
 一方、このような触頭寺院は地方レベルでも定められていた。各宗本寺と諸藩は触などの廻達や末寺から本寺・藩庁への諸願いの取次ぎのために、それぞれ触頭寺院(録所・僧録などとも称した)を定めて管轄させ、事務的な役務を負わせていた。本寺によって任命され本寺からの寺法を触れ流す触頭を寺法触頭といい、藩から任命され藩寺社方からの国法を触れ流す触頭を国法触頭と称した。両者はともに触廻達や諸願いの取次ぎを行うなど機能的には類似しており、また一寺が両者を兼ねている例が一般的であった。国法触頭は藩触を領内に触れ流すほか、各教団を代表して藩との折衝に当たる役務も負っていた。毎年正月に藩主への年頭礼を勤めた寺が国法触頭ないしそれに準ずる寺院であり、それらの寺は教団内部での地位も高く、若干変動はあったもののほぼ慣例的に決定されていた。先に述べたように、近世には教団内秩序としての本末関係があり、本末制度による寺院支配も行われていたが、とくに諸藩にとっては国郡・藩領をこえて展開する本末関係による本末制的支配より、領域を限った支配を行う触頭制的支配が適合的であった。



目次へ  前ページへ  次ページへ