松頓は通幻寂霊を開山とする通幻派(了庵派)寺院総寧寺の住持英峻が永平寺住持職を継職するに当たり、英峻の法流を受け継ぐべく幕府より総寧寺後住に任命されたが、松頓は「永平寺は他山にて候之間、英峻より法流伝授仕間敷」として英峻からの嗣法を拒み、これに不服従の態度をとった。これに対し幕府は、元和元年に家康の名において発せられた寺院法度第五条の「日本曹洞下之末派、如先規可守当寺之家訓事」を根拠に、永平寺を「他山」とする松頓を非とし、五、六代以前に関東の寺々から永平寺に入寺した僧が永平寺の法流を嗣いだ先例は歴然であると松頓を説諭した。これに対し松頓は、先の五、六代は「悪例」であり先例とすべきでないとし、総持寺末の総寧寺から永平寺に入寺するという法流の混乱を正す意味からも幕議を受け容れなかった。幕府は越生竜穏寺と「関東十か寺」を召喚して「宗門之作法」を吟味したが、結局松頓の主張は「新規非例」であり「御朱印に違背」するものとされ、松頓は津軽藩預りとなった(永平寺文書)。
松頓一件は、永平寺と総持寺が曹洞宗の両本山として並立する状況下にあって、総持寺末寺から永平寺への入寺という法流の混乱をめぐる一件であったが、その背景には中世の総持寺開創以来、断続的に発生した永平寺と総持寺の本末をめぐる争いがあった。両寺の本末をめぐる争いは天明・寛政期(一七八一〜一八〇一)にかけての「転僧転衣一件」においてかたちを変えて再燃するなど(永平寺文書 資4)、両寺の競合・対抗関係はその後も続いた。 |