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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    二 本末制度と触頭制
      滝谷寺と寿福院の出入
 本寺と末寺間の秩序維持を求めた本末制度のもとでも、本寺と末寺間の争論が多発した。ここでは、天和三年(一六八三)から三国滝谷寺と福井寿福院とのあいだで起った本末争論の例をみてみよう。滝谷寺は新義真言宗の触頭で、三国性海寺とならび越前真言宗教団を統括する中本山寺院であった。一方の寿福院は、福井神明社を実質上支配する別当寺であり、元和九年から公儀朱印地として神明社へ寄進されていた社領一〇〇石をも支配していた。天和三年に滝谷寺は、寿福院が末寺として出仕すべき滝谷寺での潅頂などの行事に出仕しなかったこと、弟子入檀などのさいに滝谷寺の指図を受けないなどの点を藩側に訴えた。ところが福井藩は「寺社の事、御領分においては惣て裁断これなし」として、本末関係などの寺社法に関する裁許はまったく行わないという方針をとった(「御用諸式目  」松平文庫 資3)。
 滝谷寺は翌貞享元年(一六八四)、寿福院の件について幕府寺社奉行に上訴した。寿福院住持が在府中病死したことなどによって裁許は延引し、同二年幕府寺社方は、寿福院が朱印地寺院であり、かつ本末争論が寺法上の問題であることから「此方構いこれなし」とした。しかし一方で、福井藩の宗門改帳の「本寺付」を裁許基準とすべきという見解をも示した。結局、宗門改の実施にさきだち寿福院の先住徳昌院が寛文五年四月に提出した、自らが滝谷寺末寺である旨の一札が証拠となって、貞享二年二月寿福院は滝谷寺末寺と決定された(「御用諸式目」)。
写真159 瀧谷寺観音堂

写真159 瀧谷寺観音堂

 この一件は幕府寺社奉行の裁許にかかった重大な事件ではあったが、新義真言宗一宗派内の本末争論にすぎないものであった。ところがこの一件の直後の貞享二年三月、福井藩は町奉行・郡奉行に対し「諸宗共に惣て本末を糺し証文を取置くべし」と領内全寺院の本末改を指示した(「御用式目」松平文庫)。この時の本末改は本寺から末寺書上を徴して本末関係を改めただけでなく、各寺の山号や由緒なども改め(滝谷寺文書 資4、「府中寺社堂由緒書」)、住持と「寺方召仕之下々」の改めつまり寺内改をも指示している。すなわち、本末争論の発生により福井藩は本末関係と寺内の人々の把握に乗りだしたのであり、この一件は福井藩の宗教行政の方向を決定する契機となった。福井藩ではこれ以後も、宝永五年(一七〇八)・文化十三年(一八一六)と寺社改や寺内改が実施されており(『越藩史略』)、寺社・僧・神職の把握が進められた。
 延宝八年(一六八〇)には、高野山報恩院と若狭の真言宗寺院のあいだで本末争論が起っている。背景は未詳であるが、報恩院は若狭の真言宗寺院の中心的寺院であった妙楽寺と明通寺を末寺化しようとし、結局妙楽寺は報恩院下とならず「無本寺」という立場を変えず、明通寺も従来どおり仁和寺の末寺として真言宗御室派に属することとなった(明通寺文書、小野寺文書)。



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