本寺と末寺間の秩序維持を求めた本末制度のもとでも、本寺と末寺間の争論が多発した。ここでは、天和三年(一六八三)から三国滝谷寺と福井寿福院とのあいだで起った本末争論の例をみてみよう。滝谷寺は新義真言宗の触頭で、三国性海寺とならび越前真言宗教団を統括する中本山寺院であった。一方の寿福院は、福井神明社を実質上支配する別当寺であり、元和九年から公儀朱印地として神明社へ寄進されていた社領一〇〇石をも支配していた。天和三年に滝谷寺は、寿福院が末寺として出仕すべき滝谷寺での潅頂などの行事に出仕しなかったこと、弟子入檀などのさいに滝谷寺の指図を受けないなどの点を藩側に訴えた。ところが福井藩は「寺社の事、御領分においては惣て裁断これなし」として、本末関係などの寺社法に関する裁許はまったく行わないという方針をとった(「御用諸式目 」松平文庫 資3)。
滝谷寺は翌貞享元年(一六八四)、寿福院の件について幕府寺社奉行に上訴した。寿福院住持が在府中病死したことなどによって裁許は延引し、同二年幕府寺社方は、寿福院が朱印地寺院であり、かつ本末争論が寺法上の問題であることから「此方構いこれなし」とした。しかし一方で、福井藩の宗門改帳の「本寺付」を裁許基準とすべきという見解をも示した。結局、宗門改の実施にさきだち寿福院の先住徳昌院が寛文五年四月に提出した、自らが滝谷寺末寺である旨の一札が証拠となって、貞享二年二月寿福院は滝谷寺末寺と決定された(「御用諸式目」)。 |