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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    二 本末制度と触頭制
      本末制度
 幕府は各宗派を統制下に置くために、本寺(本山)を頂点とする本末関係の遵守を求め、本寺を通じて末寺を含めた各宗派全体の統制を目指した。そして本末関係は、幕府や藩の諸政策によって守るべき秩序とされた。
 幕府は慶長十三年(一六〇八)から各宗寺院法度の制定を本格化させた。元和元年(一六一五)に幕府は各宗本寺に対して、本寺の末寺に対する権限などを規定した寺院法度を家康の朱印をもって発した。永平寺にもこの時、僧位僧階、紫衣着用勅許、開山忌のさいの末寺出仕、末寺の寺法遵守(永平寺の「家訓」遵守)などについて五か条からなる規定が発せられた。とくに開山忌については越前一国の諸末寺の出仕を義務付けるなど、本寺永平寺の末寺支配に関する権限を幕府が大きく認めたものであった。元和三年にも二代秀忠から寺院法度が発せられ、末寺中に触れられた(永平寺文書 資4)。
写真158 徳川家康永平寺法度

写真158 徳川家康永平寺法度

 次いで幕府は、寛永九(一六三二)・十年には諸宗から末寺帳を提出させ、諸宗寺院の把握に乗りだした。しかし、これらには浄土真宗が対象となっていないなどの不備な点もあった。ただ、寺院法度の制定や末寺帳の作成などの動きを背景として、各宗本寺は末寺支配を強化していったものとみられ、例えば曹洞宗では寛永十五年八月に末寺に対して七か条からなる定書を発している(発心寺文書)。
 寛文五年(一六六五)に幕府は諸宗共通の「諸宗寺院法度」を発し、その第三条で「本末之規式これを乱すべからず」と規定して本末関係の維持を命じ、さらに本寺の末寺に対する理不尽な沙汰を禁じている。これ以後本末関係は本末制度として確立したものと一般に考えられているが、その後元禄・享保期(一六八八〜一七三六)にかけて、領内の寺社の本末関係を把握する動きがみられた。



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