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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    一 近世の寺社支配
      大名の菩提寺
 慶長六年秀康が入部したのにともない、多くの寺院が下総結城から北庄へ寺基の移転や分寺を行った。この時北庄へ分寺を行った曹洞宗の孝顕寺は「結城御菩提所、御入部御供」の寺院としてみえ(『国事叢記』)、住持舜国も召し連れられて彼を開山とする結城家の菩提寺として建立された(「家譜」)。同寺はまた、結城孝顕寺から後住を迎えることが藩において定められていた特別な寺院であった(「御用諸式目  」松平文庫 資3)。そのほかにも曹洞宗白竜山乗国寺、法華宗結城山安穏寺、同宗関東妙国寺、真言宗光明山結城寺不動院、真宗東派本瑞寺、臨済宗華蔵寺などをはじめとして、慶長六年、七年にかけて多くの寺院が結城から寺基を移した(『国事叢記』など)。
 寛永元年に越後高田から入封した忠昌は、臨済宗高田東光寺の住持瑞雲を召し連れ、北庄城下小山田多門屋敷跡に「無縁回向之為」に東光寺を移建した。当寺は寺領五〇石二〇人扶持の処遇を受けていた(「家譜」)。秀康や忠昌の入封にともない引越してきたこれらの寺院は北庄に寺地を与えられ藩の保護を受けた。
 藩主とその一族を弔い、追善供養を行う寺々は大名の菩提寺(菩提所)とされ、寺領を保証されて藩の公的寺院として厚く保護された。各大名ともに菩提寺を定めていたが、ここでは福井藩の菩提寺についてみてみよう。
 秀康は前述したように孝顕寺に葬られ、のちに浄光院(運正寺)に改葬されたが、両寺とも菩提寺とされた。忠昌の菩提寺は曹洞宗本山の永平寺であり、寛文元年(一六六一)に光通は市野々村のうち高三〇石を忠昌追善のための石塔料として新寄進し、先規寄進分二〇石と合わせて計五〇石の寺領を保証している(永平寺文書 資4)。
 明暦三年(一六五七)には光通によって、天台宗竜王山田谷寺の旧跡に、京都妙心寺の前住持であった大愚を開山として臨済宗万松山大安寺が創建された(「家譜」)。光通により「先祖墳墓之地」とされた大安寺には、万治三年三〇〇石の寺領が寄進され、光通の死後彼の菩提所となった。また、藩祖以降の松平氏代々の廟所も当寺域内に設けられた。
写真157 松平家廟所

写真157 松平家廟所

 七代の吉品とその母高照院の菩提寺は臨済宗の足羽瑞源寺であり、二代忠直は豊後の浄土寺、在府中に没した藩主は江戸の天徳寺・霊厳寺を菩提寺とした。



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