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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    一 近世の寺社支配
      特権の制限
 統一権力は、中世において寺領を持ち、隠然たる勢力を保持していた諸寺院を徐々に自らの勢力下に収めていった。戦国期の朝倉氏は「寺庵十分一銭」、柴田氏は「北庄橋御役銭」などの役銭を寺院に対して賦課しており(滝谷寺文書 資4など)、役儀を課すことを通じて寺社を大名権力の支配下に収める政策は戦国末期から進められていた。しかし、寺社が依然としてもつ特権や寺領などの経済的基盤は大きいものがあり、これを制限・剥奪することが統一権力の一課題であった。ここで、寺社の特権が制限されていく事例を丹生郡の劒社と今立郡の水落神明社でみてみよう。
 劒社と織田信長との関係は深く、織田氏の祖は丹生郡織田荘の荘官または同社の神官ともいわれ、織田寺・劒社は「殿様(織田信長)之御氏神」として織田政権下ではとくに尊崇を集めていた。また、一向一揆後の同社の復興にさいしては旧来どおりの社領を認められていた(劒神社文書 資5)。
写真155 劒神社本殿

写真155 劒神社本殿

 天正五年三月に柴田勝家は織田荘において検地を行い、織田荘のうち一四八九石三斗を織田寺・劒社に打ち渡したが(上坂一夫家文書 資5)、それは劒社近隣の院中・上野・市場・堤・高橋・中村の各村と三崎・大王丸・上戸村の一部の高であり、広く散在した社領の集中化を図るものであった。
 勝家の実施した検地と劒社への社領打渡しは、「劒之御神領御落(没収)候事」(「大野領寺社記并雑記」)という意味合いをもち、当社が有していた免田の多くを否定することにより、実質的には劒社の経済的特権を大きく制限するものとなった。同年九月には社領の再検地が計画されたとみえ、寺僧・社人等は信長の家臣菅屋長行にその中止を訴えている(劒神社文書 資5)。
 慶長三年(一五九八)六月の太閤検地によって劒社の経済的基盤はさらに大きく制約された。すなわち、社家二五家の屋敷地一町二反余が除地(免租地)とされたのみで、旧来の社領はすべて没収されたのである。同八年二月、結城秀康から神領として織田村のうち三〇石を寄進され、寛永五年(一六二八)には大野藩主松平直政より二一石三斗二升五合を改出分(打出分)として寄進された(劒神社文書 資5)。中世では織田荘の荘域は丹生郡内に大きく広がり、近世でも「織田郷四十八村」(『越前国名蹟考』)という旧荘域を示す呼称が残っていたが、社頭の修復など維持管理や神事執行の費用、社僧・社人への配分などは大きく制限されることとなった。
 水落神明社の場合、太閤検地によって社領のほとんどが村高に加えられ、田地二反を除地として認められたものの、屋敷地は慶長五年二月に地子免除を願い出て許可されるまで地子地扱いであった。同八年二月に秀康によって水落村のうちから社領五〇石が新しく寄進され、寄進分は当初は社殿造営・修復の費用に充てられた。その後、水落・北野・下河端村の氏子や村惣中などから初穂米や田地の寄進が相次いだが(瓜生守邦家文書 資5)、それは社領没収後の同社とその祭礼の維持のためであった。このように統一権力による寺社領没収と削減された寺領の再交付政策により、寺社の経済的基盤はかなり制限された。ただ、これを契機に檀越や氏子(または村)により寺社が維持される側面が相対的に強くなったと思われる。
 また、一部の寺庵に対しては役儀の賦課も行われた。各藩の年頭礼を勤める寺社はそのさいに紙などを献上するのが通例であったが、小浜藩では酒井氏の入封以降、敦賀の来迎寺・善妙寺・本妙寺・妙顕寺・大乗寺・法泉寺・真禅寺七か寺に対して御茶屋連子・障子・行灯・貼桧皮・針・畳糸などの納入を役儀として命じていた(「寛文雑記」)。このように、近世の寺社は特権として除地を認められたり寺領を再交付される場合もあったが、地子や諸役を負担しなければならない例も多かった。



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