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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    一 近世の寺社支配
      勝家の寺院政策
 天正三年九月、信長は本願寺系寺院を除く越前の有力寺社に対して次々と禁制を下付し、同月北庄に入った柴田勝家もそれらの寺社を中心に定書・判物を下していった。当時、坂井郡の曹洞宗竜沢寺や足羽郡の天台真盛宗西蓮寺などの諸寺院は一向一揆により退転していたが、勝家はそれらの寺院やその末寺に対して還住を促し、例えば西蓮寺に対しては翌年春に北庄に寺を建てることを要請している(西蓮寺文書 資3)。
写真154 織田信長禁制

写真154 織田信長禁制

 勝家の各寺院に対する北庄への寺移転要請は強いものであったらしい。浄土宗西山派安養寺は天正三年に弥十郎町へ、浄土宗鎮西派一乗寺は同九年に一乗町へ、真言宗波着寺は愛宕坂へ、浄土宗鎮西派清源寺は呉服町へ、浄土宗西山派法興寺は一乗町へ、それぞれ天正年間に移動したと伝えられている。これらは一乗谷やその付近の村々に所在したという由緒をもつ寺々である。このほか、勝家の菩提寺となった天台真盛宗西光寺は天正四年神宮寺町に、真宗三門徒派本山専照寺は同十年堀小路に、それぞれ寺基を移転したことなども伝えられており(『越前国名蹟考』など)、天正三年以降本格化する北庄城下町建設にともない、勝家政権の保護のもと非本願寺系寺院が盛んに移転・建立されていったことがうかがえる。このように、領内寺院の北庄への配置は柴田勝家の城下町経営の一環をなすものであった。
 また、勝家は三門徒系の諸寺院に対しては「大坂(石山本願寺)と各別」とし、本願寺系の寺院と厳密に区別して諸役免除の特権を与えた(専光寺文書 資7など)。これに対し、本願寺系の諸末寺は他宗派と異なり勝家政権下では冷遇された。信長の越前侵攻のさいには信長方に抵抗していた橋立真宗寺は、一揆平定後には高田系の折立称名寺の末寺となりながらも(稱名寺文書 資7)、本願寺顕如・教如とのつながりを保ち続けていた(真宗寺文書、『越前若狭一向一揆関係史料集成』)。徹底した一向一揆弾圧を行ったといわれる勝家政権下では、本願寺派寺院は自らの存続のための方策を模索しなければならない状況にあったと推測される。
 天正十一年四月の賎ケ嶽の戦いで柴田勝家を破り、越前の支配権を握った豊臣秀吉は、越前侵攻の過程で寺社に禁制を下し、北庄に入った丹羽長秀も禁制・定書・判物を下していった。長秀は、柴田攻めのさい秀吉方によって寺を焼かれた三門徒系の鯖江誠照寺に、「先規」より国主に対し忠節であったことをもって還住を促し、さらに門徒中の進退・安全を保証し諸役を免除するなど(誠照寺文書 資5)、勝家の宗教政策とほぼ同一の路線をとった。



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