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 第五章 宗教と文化
   第一節 越前・若狭の寺社
    一 近世の寺社支配
      一向一揆平定後の諸寺院
 統一権力の登場により、宗教諸勢力は新たな対応を迫られ、各宗派内で近世社会に適合的な秩序が形成され、近世的な寺法(宗内制法)も徐々に成立していった。この動向が越前・若狭の近世寺社のあり方にも大きな影響を与えたことはいうまでもない。
 戦国末期の一向一揆とその後の織田信長による一揆平定(第一章第一節、『通史編2』第四章第五節)を経て、越前の宗教諸勢力は再編されていったが、まずこの経過を追ってみよう。
 中世を通じ越前における一大宗教勢力であった天台宗の大野郡平泉寺は、一向一揆勢により天正二年(一五七四)四月に焼討ちを受け、賢聖院をはじめとして諸坊はすべて退転した。また、越前本願寺領国下において一揆勢の惣大将下間頼照が拠点としていた真言宗の坂井郡豊原寺は、再び一揆勢の根拠地となることを恐れられ、翌年信長によって焼き討ちされるなど、天台宗・真言宗系の諸寺院は大きな打撃・影響を受けた。そのほか、今立郡の長泉寺などの諸寺も多くの坊院・衆徒を有していたが、この時そのほとんどが離散した。曹洞宗本山永平寺は一向一揆のさいには中立の立場を保っていたが、天正二年に一揆勢により焼討ちを受けたため、一時北庄に寺基を移していた(寺跡はのち福井鎮徳寺)。
 天正三年八月に一揆は平定されたが、同年十二月には大野郡の皿谷村ほか六か村の本願寺門徒惣代が、今後は高田系寺院の同郡専福寺・称名寺と足羽郡の法光寺の三か寺に「寺役」を勤め、高田門徒となることを大野郡領主金森長近に誓約している(稱名寺文書 資7)。また、翌四年六月に柴田勝家は本願寺派から「新帰参」した高田門徒の他宗派への「相談」を禁じ、本願寺派の勢力回復を防ごうとした(称名寺文書 資4)。これらのことは、一揆平定後も越前の本願寺教団(越前一向宗)が無視できない勢力を保持し、当時の越前の領主等もその存在をかなり警戒していたことを示している。
 一方で信長は、本願寺系寺院を除く他宗派に対しては、一向一揆勢力に対抗させるためその平定の過程から積極的保護を加え、反一向一揆勢力として結集することを求めていた。信長は越前侵攻にさきだつ天正二年七月には熊坂専修寺に対して、翌年六月には原政茂をかいして大野郡内の「日蓮門徒中・三門徒中」に対して忠節を求めている(法雲寺文書・誠照寺文書 資5)。また当時美濃にいた金森長近も、越前侵攻にさきだって同三年七月大野郡内の高田系末寺専福寺・賢松寺・保福寺に対して忠節を求め、一向一揆討伐を有利に進めようとした(友兼専福寺文書 資7)。このように、戦国末期には各宗教勢力の組織化がいっそう進み、門徒を含みこむ大きな宗教勢力再編の動向があったことが推測される。



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