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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    五 参勤交代と旅行
      武士と旅
 大名は参勤交代のほかに旅をすることがあった。まず幕府軍役としての城受取りに出かける旅がある。例えば、元禄十年九月美作津山城受取りのため、明石藩主松平直明とともにその役に当たった小浜藩主酒井忠囿は小浜より津山に出かけた。軍役以外に、鯖江藩主間部詮勝や小浜藩主酒井忠音・忠用・忠進・忠義のように大坂城代や京都所司代として任地に赴くことも旅としてあげられる。同様に大野藩主土井氏、勝山藩主小笠原氏は大坂加番として赴任することがあった。例えば、土井利知は元禄九年五月に参府し、六月十八日江戸を出発、晦日に大坂に到着した。享保十六年七月には大野から直接大坂へ向かった(土井家文書)。江戸定府であった鞠山藩主酒井氏も大坂加番や大坂定番として赴任することがあり、忠明は文化六年大坂加番交代のため七月十三日江戸を出発し、二十三日在所である敦賀に立ち寄り、二十八日敦賀を発ち大坂へ向かった(山本計一家文書)。
 大名に限らず旗本のなかにも参勤交代をする者がいた。交代寄合  と呼ばれ、金森左京  もその一人であった。例えば、可英は明和四年五月二日江戸を発ち、十四日南条郡白崎に帰館した。途中伊部宿で、本陣付一五人・諸士七人・足軽四人・馬方二人の計二八人とともに昼休みをとっている(肥田嘉昭家文書)。
 大名は私的な旅として他国へ出かけることがあり、福井藩主では寛永四年三月には忠昌が、文政五年八月には治好が湯治のため福井から有馬に出かけた。治好は江戸から帰国後、八月四日に福井を発ち、西近江路を通り十一日京都着。京都所司代松平乗寛と逢対し、十四日有馬着。二〇日余の滞在後、九月三日有馬を発ち、大坂蔵屋敷・京都を経て西近江路を通り、十九日帰城した。このほか、大名は在国中鷹狩などのため領内を遊覧することがあった。小浜藩主酒井忠直は万治二年四月朔日、敦賀に出かけ鷹狩をし、二日には新道野に行き、道口番所を訪れ、三日は池河内へ行き、四日は野坂嶽に登った。五日に敦賀を発ち、途中「三方海」で網引きを見て帰城している。
 家臣の場合はどうであろうか。小浜藩を例に万治二年の「御自分日記」から家臣の動きをみてみる。藩主忠直はこの年五月まで在国しており、正月には将軍家綱への年始の御機嫌伺などの使者が江戸へ出発している。このように使者として小浜・江戸間を往復する家臣がいる。定期的なものとして、二月には江戸勤番の交代として江戸へ向かう家臣、三月には帰国する家臣、あるいは京都屋敷や大津蔵屋敷へ赴任する家臣がおり、いずれも公務による旅である。このほか私的な旅では、三月に湯治や伊勢参宮のために出かけている。
 忠直参府後には下野佐野領へ検見のため、小浜へ取付勘定のため、南部へ馬買いのためなど公務による旅に出ている。私的な旅として、病気療養や家族の病気・死去により小浜へ出立する家臣がいる。万治二年、忠直在国中に小浜を出立した家臣数は延べ三六人、在府中に江戸を出立した家臣数は延べ三八人であった。



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