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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    五 参勤交代と旅行
      参勤交代と財政
 家臣の休泊や荷物の運搬にかかる費用に加えて、行く先々での接待に対する返礼や前述した将軍家への献上物・幕府役人への贈物など参勤交代にかかる費用は多額であった。福井藩は嘉永二年の「御国御入用払」に参勤路用として一八八八両二朱をあげており、これは国入用全体の一四パーセントになる(松平文庫)。また参府にともなう江戸での入用は膨大であった。この年の「江戸御入用払」は四万六一八八両二歩であり、「御国入用払」の一万三三二一両二歩二朱をはるかにこえていた(同前)。
写真153 参勤交代の場面(「福井江戸往還図屏風」)

写真153 参勤交代の場面(「福井江戸往還図屏風」)

 道中の本陣への下賜金について、伊部宿の本陣肥田家の「海道帳」からもう少しみてみる。延享二年に当宿で昼休みをとったのは丸岡藩主有馬孝純、宿泊したのは小浜藩主酒井忠用、大野藩主土井利寛、鯖江藩主間部詮方、勝山藩世子小笠原源弥(信房)、福井藩主松平宗矩であった。これらの大名に肥田家から献上物があり、大名から下賜金があった。例えば松平宗矩へ鯉・醒井餅・菓子など五種、酒井忠用・土井利寛へ鯉・餅の二種を献上し、宗矩から銀五枚・金二両、忠用から金三両、利寛から金一両二分を拝領した。家臣の休泊の旅篭代は各藩ごとに事前に本陣へ通達された。福井藩は元文四年(一七三九)には一泊につき一人銭一〇〇文、昼休みでは一人銭四八文、延享四年には一泊一一〇文・昼休み五三文とした。旅篭代は藩によってやや異なっており、延享二年には小浜藩は一泊につき一人一二五文、鯖江藩は一人一一五文、福井藩・大野藩・勝山藩は一人一〇〇文であった。延享二年、伊部宿での旅篭代として鯖江藩は銭二七貫〇五四文(金に換算して約七両)、大野藩は銭二六貫四〇〇文を支払った。
 福井藩では、早くから参勤交代の費用の捻出に苦慮しており、「家譜」によると、元禄七年春「当春御参勤の御用意もあそばされがたき様子に付き」とあり、以後も苦しい状況を知ることができる。正徳元年(一七一一)吉邦の初入国のさいには三五〇〇両を領内から調達した。安永八年には費用の工面が間に合わず、道中の供の一部が出発できず、遅れて出発した。こうしたなか、藩は倹約につとめ、参勤交代の費用を削減しようとした。明和二年(一七六五)休泊の本陣に対して主人以外の家内からの指上物を断り、翌三年には前日の休泊の本陣への御機嫌伺や飛脚による指上物の差控えを命じるなどして本陣への下賜金の減額を図った(肥田嘉昭家文書)。また、供立の削減も行い、明和三年重富の帰国にさいし先道具のうち持弓一〇張・杉形槍一〇本を品川から減らし、翌年の参勤では減らした先道具を品川まで迎えに出した。そのほか、同六年には参勤時の幕府役人への贈物の一部省略を幕府の許可のもと行った。同七年には発駕前に、道中筋の旗本・領主・代官へ「馳走」を断る旨の通達を出すなどしている(「家譜」)。



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